吾非謬伝(吾、謬(あや)まり伝うるに非ず)(「寒山集」)
今日は暖かくなって、春一番らしいのも吹きました。ウソではありません。

努力や希望を覆す「運命」があるということまでは許容しますが、七難八苦までは要らないのですが。
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死生元有命、富貴本由天。
死生は元より命有り、富貴は本より天に由る。
死ぬも生きるも本来運命というものがあるのだし、財産を獲るも地位を得るも本来お天道さまが決めるのだ。
人間の努力は関係ないのだ。
と言ってみましたら、えらい人たちが、
「自己責任を否定するとは、新自由主義の精神に反する」
と騒ぎだして、新自由主義精神注入棒でケツバットを食らうことになった。
ちょっと待ってください。
此是古人語、吾今非謬伝。
これはこれ古人の語なり、吾の今繆(あや)まり伝うるには非ず。
これは、むかしの人のコトバそのままです。わたしが今、誤ってお伝えしたのではありません。
「誰の言葉だ?」
「そいつは「カネだけ今だけ自分だけ」勝者に心地よい新自由主義思想を理解できないのかしら」
「新自由主義を注入してやらねばならんかも知れんな」
この言葉は、孔子の高弟・子夏のコトバです。
司馬牛憂曰、人皆有兄弟。我独亡。
司馬牛憂いて曰く、人にみな兄弟有り。我ひとり亡し。
孔子の弟子・司馬牛が落ち込んで言った、「みなさんにはご兄弟がおありだが、おれだけはいないのだ」と。
伝説では、実際は兄貴がいるのですが、この兄貴が孔子を攻撃したり悪事を働くので、司馬牛は「兄弟なんかいない」と言った、という。
これを聞いて、
子夏曰、商聞之、死生有命、富貴在天。君子敬而無失、与人恭而有礼、四海之内皆兄弟也。君子何患乎無兄弟也。
子夏曰く、商これを聞く、死生に命有り、富貴は天に在り。君子敬にして失う無く、人とともにするに恭にして礼有れば、四海の内はみな兄弟なり、と。君子何を患えん、兄弟の無きを。
兄弟弟子の子夏が言った、「商(←子夏の名前です)はこう聞いているがなあ。
―――死ぬも生きるも命数がある。財産と地位はお天道さまが決めるのだ。ひとがつつしみ深くして失敗せず、他人と行動するときに恭しくして礼儀を忘れなければ、四方の海に囲まれたこの天下のひとびとはみんな兄弟のようなものだ、と。
きみはなぜ兄弟がいないことで落ち込んでいるのか」
せっかくの慰めですが、司馬牛の悩みが上の伝説のように、兄貴がワルであることにあったのだとすると、ちょっと逆効果なような気もしますね。「論語」顔淵篇より。
これを聞いて新自由主義者たちは、
「「論語」は企業経営などにも役立つ本だからなあ」
「「論語」に載っているのならいいコトバとされるわね」
「よし、今日のところは見逃してやる」
へへー。ありがたや。
行ってしまいました。
聡明好短命、痴騃却長年。
聡明は好く短命に、痴騃(ちがい)は却って長年なり。
聡明なひとは命短いことがよくあり、おろか者はかえって長生きするものじゃ。
まったく、死生に命有りだが、どうも運命は逆向きになる傾向がある。
鈍物豊財宝、惺惺漢無銭。
鈍物は財宝豊かなれども、惺惺漢に銭無し。
愚鈍なやつは財宝豊かだが、目覚めたやつにはカネは無し。
富貴は天が決めるものだが、天の決定もどうやら逆向きになるのだわい。よって、カネの無い者の方が優れていることが明らかになる。
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「寒山集」より。お酒飲んで地下鉄でひと眠りしてきました。美味い中華食ったので満腹で苦しい。ああいつまでこんな生活していていいのでしょうか。旧暦だったら「そのきさらぎの望月のころ」だからそろそろ旅立つ準備もしなければならないが、新暦だからまだ大丈夫?