冉冉老将至(冉冉として老いのまさに至らんとす)(魏武侯集)
この年齢にしてはよく食うが、食うほどには元気はありません。結局、元気自体は年齢相応であろう。

なかなか社会には受け入れられないが、おれホントはいいやつなんでコン。
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三国時代といいますと、「三国志演義」や横山光輝版「三国志」などを愛読されている方には、関羽や張飛の粗野、董卓や呂布の残忍、あるいは「げげー!孔明!」などの単純なコトバしか無かった古代、と思われるかも知れないのですが、ようやく個人の名で詩を作りはじめた時代でもあったのです。
そんな時代のおそらく一番すぐれた詩人の詩を読んでみます。
鴻雁出塞北、乃在無人郷。挙翅万里余、行止自成行、冬節食南稲、春日復北翔。
鴻雁は塞の北に出でて、すなわち無人の郷に在り。
翅を挙げて万里の余、行止おのずから行を成して、
冬節は南稲を食らい、春日にはまた北に翔く。
これが第一節。
おおきな雁は、長城の北に生まれる。人間の住まないところだ。
羽を振り上げて飛び立って4000キロ以上の空を、飛ぶときも止まるときもおのずと仲間たちと並んで、
冬には南の国で実ったイネを食い、春の日にはまた北に向かって飛んで行く。
(まとめ)
☆カリは、仲間たちと列を作る。兵隊のように。
☆カリは、時が来れば、ふるさとに帰っていくことができる。
田中有転蓬、随風遠飄揚、長与故根絶、万歳不相当。
田中に転蓬有りて、風に随いて遠く飄揚し、
長く故根と絶して、万歳に相当せざらん。
二行しかありませんが、これが第二節。
畑の中に「転がりヨモギ」がある。風に吹かれてごろごろと転がり跳ねたりして飛ばされて行き、
永遠に根っことお別れだ、二度と再会することはない。
「転がりヨモギ」というのは、そういう植物なんだそうです。我が国では見ないのですが、根っこから切れて茎以上は風に吹かれて遠くまで飛ばされて行く。そこで種を落として根付けば、また次の年にも同じことを繰り返す、という。
(まとめ)
☆転がりヨモギは二度と故郷に帰ることはない。
奈何此征夫、安得去四方。戎馬不解鞍、鎧甲不離傍、冉冉老将至、何時反故郷。
奈何(いかん)ぞ此の征夫、いずくんぞ四方に去くを得し。
戎馬は鞍を解かず、鎧甲は傍らを離れず、
冉冉として老いのまさに至らんとするに、何れの時には故郷に反らん。
第三節です。「冉冉」(ぜんぜん)は「漸漸」と同義で、「だんだんと」。
どうだろうか、この俺たち軍人は。なぜ四方の遠くまでやってきたのだろうか。
緊急に備えて、軍馬にはいつも鞍を置いたまま、よろいと兜はいつも身の側にある。
こんな暮らしでだんだんと年も老いてきて、いつの日に故郷に帰れるのだろう。
(まとめ)
☆おれたち軍人は年を取っても帰れない。
神龍蔵深泉、猛獣歩高崗。狐死帰首丘、故郷安可忘。
神龍は深き泉に蔵(かく)れ、猛獣は高き崗を歩む。
狐も死して首を丘に帰さんに、故郷いずくんぞ忘るべけんや。
最終節です。
神秘の龍は(自分のねぐらである)深い淵に潜んでいるだろう。猛きケモノは(自分たちのテリトリーである)高い丘のあたりをうろついているだろう。(俺たちはまだ帰れないのだ。)
キツネは死ぬときには自分の生まれた丘の方に頭を向けて伏すという。ふるさとを、どうして忘れることができようか。
(まとめ)
☆龍や猛獣はいいなあ。おれたちはキツネ以下だぜ。以上。
キツネの死に方は、「礼記」檀弓上にいう、
太公封于営丘、比及五世、皆反葬于周。
太公、営丘に封ぜらるも、五世に及ぶ比(ころ)まで、みな周に反りて葬むれり。
周の初め、太公望呂尚は山東・斉の営丘に領地をもらったが、彼から五代目までの斉公は、みんな亡骸を陝西の周の国に戻して葬られた。
このことについて、
君子曰、楽楽其所自生、礼不忘其本。古之人有言曰、狐死正丘首、仁也。
君子曰く、楽しきはその自ら生ずるところを楽しみ、礼はその本を忘れず。いにしえの人に言有りて曰く、「狐死するに丘に首を正すは仁なり」と。
良き人がおっしゃった。
「楽しみとは、自分の生まれた土地で楽しく暮らすことを言う。人の守るべき礼の基本精神は、根本を忘れない、ということだ。いにしえの人にこんなコトバがある。
―――キツネは死ぬとき、自分の生まれた丘の方に頭を向けて倒れる。自らの根本を忘れないとは、優しきドウブツではないか。
と」
を引いています。
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三国・魏武侯・曹操「却東西門行」(東西の門を却ぞくるの行(うた))より。曹操さまの詩でした。曹操さまは不世出の政戦両略の英雄、また「孫子」に初めて注釈をつけた偉大な学者であられるが、さらにこのように一兵卒の気持ちを代り詠める詩人だったのです。
この詩は、漢代以来の「却東西門行」という歌の節に載せて、軍旅の兵舎や露営の焚火の周りで、故郷を遠く離れた兵士たちに歌われた「兵隊歌」です。軍国の士気を挙げるために軍部やレコード会社や新聞社が創って、戦後になったら知らん顔してたような軍歌ではなく、「戦友の遺骨を抱いて」のような兵隊たちが歌っていたうたである。
兵士たちはこの歌を歌いながら、自分たちの最高指揮官が、劉備や孔明や関羽や張飛のような芝居がかった強いだけのやつらと違って、自分たちと感情を同じくする人間だという思いを強くしたことでしょう。吉川幸次郎大先生曰く、
曹操の・・・三十数首の詩・・・それらの歌は、外形として市民のもの(←「楽府」であることを言う)を用いているばかりでなく、内容もまた、或いは市民的な感情を継承しようとする。(1967筑摩叢書「中国詩史」)
とべた褒めです。なお、「人民」を使わないところ、おりから一世を風靡する文化大革命への強い疑義が現れているようですね。