視之已逝(これを視るに已に逝けり)(「梁渓漫志」)
ぽっくりじゃ。

そろそろ行きたいやつは連れて行ってやるぞ。
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宋の紹興年間(1131~63)の末ごろ
江西一僧、忘其名、住饒州荐福寺。
江西の一僧、その名を忘れしが、饒州荐福寺に住せり。
江西省で、ある僧侶(名前を忘れてしまいました)が、饒州の荐福寺(せんふくじ)に住持していた。
もうかなりの高齢で、この寺の長老だったそうです。
寺傍旧多隙地、寖為人侵漁。
寺傍に旧(もと)隙地多く、寖(ようや)く人に侵漁せらる。
寺の周りにはもともと空き地が多かったのだが、最近では土地の財産家たちにどんどん占拠され、彼らの土地として登記されるようになった。
寺はかつて唐末から五代の殺伐たる戦乱期に、地域の人たちが協力して、祖先の追善と自分たちの死後の安楽を求めて建てたものであった。長老の若いころにはその精神がまだ息づいていたが、今では一部の有力者たちが貧しい農民たちの土地を取り上げ、それでは足りずに寺の周囲の土地まで収取する(このような土地の集積を「兼併」といいます)ようになったのである。
僧、自度力不能制、乃謂其徒。
僧、自ら力制する能わざるを度(はか)り、すなわちその徒に謂う。
長老は、その動きを抑えようとしたのですが、なにしろお役所と組んでやってることですから、自分の力ではもうどうしようもない。それで、その弟子たちに、こういうようになった。
寺有主者、所以主張是寺也。座視地為他人有而不能直、焉用主者為。吾甚愧之。今当去矣。
寺に主者有るは、以て是れ寺なりと主張する所なり。座視地に他人の有と為して直す能わざれば、焉んぞ主者たるを用いんや。吾、甚だこれを愧ず。今、まさに去るべし。
「寺には檀家というものがある。檀家が「ここは寺です」と主張することによって、寺になるのじゃ。ところが、檀家の連中が、寺が俗人に乗っ取られても座視してそのことを正すことができないのでは、檀家の用を果たしていないとしか言いようがない。(檀家の有力者が犯人だからな。)わしはたいへん情けない。したがって、もう行くことにした」
と。
「はあ」「そうですね」「へー」
とみんな聞き流していたのですが、ある日、長老は、
昇座鳴鼓集衆。
座に昇りて鼓を鳴らして衆を集む。
高座に昇ると、太鼓を鳴らして、寺内のメンバーを全員集合させた。
みんなが集まると、
高吟曰。
高吟して曰えり。
大きな声で詩偈を吟じ始めた。
偈に曰く、
江南江北水雲郷、千頃蘆花未著霜。好景不将零砕売、
江南江北の水雲郷、千頃の蘆花、いまだ霜を著(つ)けず。好景は零砕して売るを将(もち)いざれ―――
この村は長江のほとり、あちらもこちらも水ともやの水郷じゃ。
田んぼ千枚分ぐらいの広い湿地にアシの白い花が咲き、まだ秋の霜に凋む前。
このよき風景を、ばらばらにして売り飛ばすのはよろしくない―――
そして、ぎろぎろと集まった衆を見回した後、ひときわ大きな声で、
一時分付謝三郎。
一時に分付せよ、謝三郎に。
全部ひとまとめに、謝家の三男坊に任せてしまおうぞ。
謝三郎とは、唐末、
我是釣魚船上謝三郎。
我はこれ釣魚船上の謝三郎。
わしは、釣り船に乗っていた謝三郎じゃ。(今度は弟子たちを釣り上げて悟りに連れて行ってやる!)
と自称していた禅僧・玄沙師備のことです。謝家の三男だったのでこう呼ばれる。玄沙師備は修行の厳しさで有名だったのですが、もと漁師出身だった。
―――この風景(この寺)は、我々僧侶が守っていくのじゃ!
大声で詩偈を唱え終えた僧は、
遂閉目不語。
遂に閉目して語らず。
そのまま目を閉ざして、一言も話さない。
衆愕眙。
衆、愕眙(がくち)す。
「眙」(ち)は「見つめる」。
みんな、(次に何を言うだろうかと)じっと見つめていた。
何も起こらないので、高弟たちが立ち上がり、
視之已逝矣。
これを視るに已に逝けり。
よくよく見たら、もう死んでいた。
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宋・費兗「梁渓漫志」巻六より。地上の権力や財産には従わないことを明らかにしたのです。SDGsの風潮にも安易に乗せられないようにしてほしいとかなんとか。
明日からまた平日。地上に戻るのはこの年になってもイヤだなあ。