老而能学(老いて能く学ぶ)(「梁渓漫志」)
目も弱くなりまして、頭も・・・もうダメじゃ。

スカっと刃で斬っちゃうよ。
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魏武侯・曹操がこんなこと言うているそうです。
老而能学、惟吾与袁伯業。
老いて能く学ぶは、これ吾と袁伯業のみ。
「老人になってからもよく学んでいると言えるのは、わしと袁伯業だけじゃ」
袁伯業は曹操のライバルであった袁紹の従兄であった袁遺のこと。若いころからの友人であった。
さて、このエピソードを読んで、蘇東坡が言った、
此事不独今人不能、古人亦自少也。
この事、独り今人の能わざるのみならず、古人もまた自ずから少なきなり。
この(老いてよく学ぶという)ことは、現代人は誰もようせんのだが、昔の人もやはりできる人はほとんどいなかったということがわかったわい。
と。
一方、蘇東坡は先輩の文彦博に著書を贈った送り状の中で、
就使無取、亦足見其窮不忘道、老而能学也。
たとい取る無からしむるとも、またその窮して道を忘れず、老いてよく学ぶを見るに足る。
たとえこの本の中に何の価値が無かったとしても、(わたしが)貧乏しても道義のなんたるかを忘れず、年をとっても学問を続けている、ということを知っていただけると思います。
と言っている。
ということは、現代人では自分一人だけが老いても学んでいる、と思っていたのだろうか。
それはさておき、
予竊謂、年歯寖高而能留意于学、此固非易事、然于其中亦自有味。
予竊(ひそ)かに謂(おも)えり、年歯寖(ようや)く高くしてよく学に留意するは、これ固より易き事に非ざるも、然るにその中にまた自ずから味わい有らん、と。
わしはひとり、こう思っております。
年齢がかなり高くなって、それでも学問に注意するというのは、確かに簡単なことではない。しかし、その中には、自然と味わい深いこともあるのではなかろうか。
蓋老者更事既熟、見理既明。開巻之際、迎刃而解、如行旧路而見故人。所謂温故知新者。
けだし、老者は事を更(ふ)ること既に熟し、理を見ること既に明らけし。開巻の際、迎刃にして解し、旧路を行きて故人を見るが如く、いわゆる「温故知新」なるものならん。
それというのも、老人はいろんなことを経験して人生に物馴れ、この世のことわりももう明確に見きっているはずだからである。書物を開けば、刃を持ってこちらから斬りつけなくても、向こうからどんどんこっちに来て斬られて行く、みたいに理解ができ、いつもの道でいつかの誰かに会う、というようなもの、孔子さまがおっしゃった、いわゆる「昔のことを温めて、新しいことを知り直す」というやつだと思われる。
ホントにそんなうまくいきますかね。
人于少年読書、与中年、晩年所見各不同、其作文亦然。故老而能学、蓋自有以楽之也。
人、少年に読書すると、中年・晩年と所見おのおの同じからず、その作文においてもまた然らん。故に老いてよく学ぶは、けだし自ずから以てこれを楽しむこと有らん。
ひとは、若いころの読書と壮年のと老年のとは、それぞれ見えることが違ってくるという。文章を自分で作るときもそうであろう。そういうわけだから、老いて能く学ぶという人は、おのずと楽しむところもあるのであろうと思う。
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南宋・費兗「梁渓漫志」巻五より。みなさんは如何ですかのう。わしはもう・・・。だいたい、老いて事を更ること既に熟す、とか、理を見ること既に明らけし、なんていうことはありません。どんどん何ごともわからなくなってきております。
「温故知新」は問題ないと思いますので、「迎刃而解」の方について補足しておきます。
「迎刃而解」(刃を迎えて解す)は、「晋書」巻三四・杜預伝に出てくるコトバです。
・・・準備の整った晋軍が長江を下って呉を攻めた時、緒戦の好調に関わらず最終決戦をなおためらう群臣らに対して、軍師の杜預が言った。
今兵威已振、譬如破竹数節之後、皆迎刃而解、無復著手処也。
今、兵威すでに振い、譬うるに破竹数節の後には、みな刃を迎えて解し、また手を著(つ)くるの処無きがごとし。
今の状況は、我が軍の威力がすでに強烈に作動して、たとえてみれば、みなさん竹を割るとき、最初の数節は小刀の刃を当ててぎゅぎゅっと押さなければなりませんが、そこから先は、竹の方から刃を迎えるように勝手に割れていき、力を入れる必要がない―――のと同じ状況でございます。
短いコトバの中で、「破竹の勢い」と「刃を迎えて解く」、二つの故事成語が覚えられました。