2月調査報告3

2月11日(土)~12日(日) 安房鴨川探索 

おそらく海人族なんで、海人族のいたであろうところに行ってしまうんです。「あは」は阿波同様、彼らのおそらく「よい土地」を意味するコトバか。「カモ」は川に沿った細長い平地をいうコトバであることは確定しています。

〇天面(あまつら) ・・・ 鴨川から一駅南下した太海からさらに峠を越えて行きました。

村境には左から賽子、笠?、わらじ、つとみたいなもの、がぶらさげられていた。

今回どうしても鴨川に行こう、とボケ老人心にも思い立ったのが、天面の西院河原地蔵尊に詣りたくなったからです。この地蔵尊は、コドモや水子、若くして亡くなった人たちが行った「賽の河原」に彼らを救いに行ってくれるとされており、今も篤い信仰がある―――と、昭和47年の第一法規「日本の民俗」12「千葉」に出てきたので、今どうなってるんだろうと心底興味が湧いたのです。

今も、たくさんの供え物の人形や位牌、写真が祀られ、堂守のおばあもいて、信仰が生きていることがわかりました。おばあとは少し話をしたが、あまりかみ合わなかったけど、しようがない。

見るからに不思議な場である。

その後、天面の善光寺へ。ここには南北朝期と推測される善光寺型阿弥陀三尊像があるとのこと(開帳日以外は写真)。ここの阿弥陀さんは善光寺のお姉さんなんじゃ、とこれも近くにいたおばあが教えてくれました。

開帳日があるようだ。

このあたりのおばあたちはみな海人族特有の顔つきをしているのですが、話し言葉は丁寧な標準語なのでちょっとギャップがありました。

これほどの悪ではないようだった。

その後、出世不動尊を経て、頼朝さまがここで千葉常胤の来着を待ったという波切不動(立ち入り禁止)の直前まで行って、道の駅からバスで鴨川本町へ戻る。よく歩いたなあ。

波切不動入口。近くには頼朝さまが名馬(後にひよどり越えで義経さまがお使いになった)を入手したことを記念する「名馬橋」もある。

〇翌朝、荷物を預けるロッカー等が見つからないので、重き荷を負いて行く。

〇鴨川河畔 ・・・ 鴨川を南に渡ると、加茂川神社という小さな水神祠がありました。その横を目的意識も無く上流に歩いていくと、なんやら石碑がありますよ。読みづらいのですが読んでみると、これがなんと!

烈医・沼野玄昌弔魂碑であった。

この間シゴトの関係で、明治10年のコレラの際に、千葉県のどこやらで「医者が毒を盛った」と暴動を起こした民衆にコロされた医師がいたそうなんですよー、わははは、と人に説明したことがあったのですが、その当人の碑でした。偶然こんな形で出くわすとは。

先生は天保何年かの江戸の旗本家の生まれで医を修め、明治8年だかに鴨川河口の前原の地に赴任(「官命」らしいので県の招聘か)したそうですが、明治10年のコレラ禍で、上述のとおり暴民に虐殺された。

没後100年に当たる昭和53年に、市長さんたちが作った記念委員会が建てた碑だそうです。

小湊の日良さん(和尚)の詩が刻まれておりました。

身従政令投前原、

医学精忠跡尚存。

心地湿衣深雨日、

妙経一巻酬霊魂。

だそうです。

当時のこと、いろんなことがあってそんなことになったのでしょうが、それからわずか50年弱で、男子普通選挙開始です。頑迷固陋の愚民どもをそこまで開明した明治政府はやっぱりすごいよなー。

まったく不思議な御縁で弔魂碑に出会ってしまった。

〇魚見塚展望台 ・・・ 郷土出身の彫刻家・長谷川昂の「暁風」という裸体の女性像(観音さんだそうです)の巨大なのがありました。長谷川は釜石観音や東京湾観音も造った人で、明治の始めに生まれて昭和の終わりごろに101歳で亡くなったようです。

展望台から見る。鴨川松島とその向こうが仁右衛門島。

観音様だからいいか、とは思うが少しエロい。

展望台の先に浅間神社あり。安房は冨士講が盛ん(「山包講」というそうです)でその108社の一番がこの浅間神社だそうです。富士登山108回、という超人みたいな栄行真山という人が弘めたんだそうです。「そうです」ばかりですが、知らないことばかりだったので感動しているんです。

浅間神社。麓からすごい階段を登っても来れるようです。

大正九年の写真だそうです。

浅間神社と展望台の間の道祖神。このあたりは双体道祖神ですね。

〇曾呂(そろ) ・・・鴨川本町から鴨川を渡り、太海に入る直前あたりが曾呂。五代の内閣で大蔵大臣を務めた水田三喜夫氏の出身地らしい。

〇太海 ・・・ 太海漁村があります。これは香指神社。海人族大好きな断崖聖地である。

岩の上に社殿があって海を向いています。


〇仁右衛門島 ・・・ 28年振りに来てみました。
ここまで歩いてきたから疲れた。ほとんど覚えていなかったが、頼朝隠れ穴だけは昨日のことのように思い出した。渡し舟のひとが28年前はもっとなまっていたのに、今日の人たちは丁寧なですますの標準語で、時の流れを感じました。

昭和23年に皇太子(現上皇さま)がお見えになっていますが、その時の東宮大夫が穂積高遠。すごい時代です。

〇太海竜神宮 ・・・ 海人族は海から「祖神」が上がってくるところに、立神をつくるのが大好きなんです。この後方の山の形からして、ここ(竜神宮)が(南島海人族のいう)アシャゲで、あの山がオボツであろう。

撮影者の背後にオボツと同じ形の小さな塔があるんです。

〇弁天島 ・・・ 房総民俗の超有名名所です。一面八臂の弁天様の60年一度の大開帳、その間に行われる中開帳(これも60年一度。すなわち30年に一度開帳があります)の時に、大漁旗を飾った船橋で渡るという典型的な海人族の禁忌地「神の嶋」が、橋で渡れるというので行ってみました。
遊猟者が若干入っていましたが、この島の社頭を過ぎた向こう側はおそらく「お言わず」(見たものを口にしてはいけない)なので触れない、ではなくて知らない、何も知りません!

この右手の方から渡ってこれるんです。

〇鴨川市郷土資料館 ・・・ ほんとは最初にいくべきなのですが、地蔵尊から行こう、と思ってたのでここが最後になってしまった。かなり充実した民俗資料、花房藩関係資料、水田・長谷川と古泉千樫の関係展示などなかなかよろしい。しかも、波の伊八(初代・二代・三代・四代の作品あり。昭和に活動した五代までいるそうです)の木彫り、北斎とその弟子らの狂歌画のコレクションは素晴らしい。

水田さんの胸像はトレードマーク?の額のでかい「できもの」みたいなのがちゃんと表現されてます。

今回は以上です。ほんとによく歩いた~。

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