小人之所罵(小人の罵るところ)(「幽夢影」)
忘年会なるものがありました。この文章を書き始めた今は頭痛い。早く寝たい。部屋寒い。腹苦しい。もうダメだ。

わしも善人づらをしているのに疲れてきたのう・・・くっくっく。
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寧為小人之所罵、毋為君子之所鄙。
むしろ小人の罵るところと為るとも、君子の鄙とするところと為る毋(な)かれ。
つまらないやつらに罵倒されてもいいのだが、よき人たちに軽蔑されてはいかんぞ。
ほんとですよね。
寧為盲主司之所擯棄、毋為諸名宿之所不知。
むしろ盲主司の擯棄するところと為るとも、諸名宿の知らざるところと為る毋かれ。
「主司」は科挙試験の試験官のことです。「名宿」は、すぐれた長老。
目の見えないような試験官に捨てられてもいいのだが、すぐれた長老方に名も知られてないようではいかん。
原著者の心斎先生・張潮の書いたことはこれだけです。
早速、友人たちのつけた評語を見てみます。
陳康疇:世之人自今以後、慎毋罵心斎也。
世の人、今より以後は、慎んで心齋を罵るなかれ。
世間のみなさま、今後は、張心齋先生を罵倒してはいけませんぞ。
小人だと確定しますよ。
江含徴:不独罵也、即打亦無妨。但恐鶏肋不足以安尊挙耳。
独り罵るのみならざるなり、即打もまた妨げず。ただ、鶏肋の以て尊挙に安んずるに足らざるを恐るるのみ。
「鶏肋」はニワトリのあばら骨、もう食べるところは無いのだがまだ肉が残っていそうで捨てきれない。捨てきれないもの、の譬喩です。
(小人のみなさん、張心斎を)罵倒するだけでなく、突然ぶん殴っても構いません。しかし、捨てきれずに置いてあっただけのやつが、棚上げされているのにガマンできなくなって何かやらかすのだけは心配だ。
難しい言い回しをしていますが、心斎先生のような何も出来ないだろうとバカにされてるやつも何か仕出かすかも知れんぞ、と警告又は負け惜しみを言ってやっている、ということでしょうか。反清運動のことを言っているとするとちょっとヤバイかも。
張竹坡;後二句、足少平吾恨。
後の二句、吾が恨みを少しく平らぐるに足れり。
後ろの二句(むしろ盲主司の擯棄するところ・・・)は、わしの恨みを少しだけ晴らせてくれたわい。
試験に落ち続けてきた恨みなのでしょう。
李若金:不為小人所罵、便是郷愿。若為君子所鄙、断非佳士。
小人の罵るところと為らざるはすなわちこれ郷愿(きょうげん)なり。もし君子の鄙とするところと為らば、断じて佳士に非ず。
つまらないやつらに罵倒されない、というのは、すなわち「郷愿」(いなかの善人)だ。一方、よき人たちに軽蔑されるようなやつは、絶対にいい男ではない。
以上です。さあ風呂入って寝よう、と。
「郷愿」とは何じゃ、という人は下を参照。
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清・張心斎「幽夢影」第180則。肝冷斎もいろいろ罵られたが、その人たちはつまらないやつだったのでしょう。しかるに最近年をとったら(表面上は)罵られなくなったので、世間の人たちもだいぶん君子になってきたのではないかのう。
さて、「郷愿」(きょうげん)の語は、「論語」陽貨篇に出てまいります。
子曰、郷原徳之賊也。
子曰く、郷原は徳の賊なり。
先生がおっしゃるには、「郷原のやつらは、徳の盗人じゃ!」と。
孔子先生にしては珍しく語気荒く否定しております。朱子の注によれば「原は愿と同じ」なので、「郷原」でも「郷愿」でも同じらしいのですが、以下、朱注を読むと、
郷原、郷人之愿者也。
郷原は、郷人の愿なる者なり。
「郷原」というのは、田舎の「善い」人のことである。
「愿」(げん)は、素直で謹み深い、という意味の字です。すごくいいことに見えます。その人を孔子が罵っているので、古来いろんな解釈がなされてきました。朱子は言う、
蓋其同流合汚以媚於世。故在郷人之中、独為愿称。夫子以其似徳非徳、而反乱乎徳、故以為徳之賊、而深悪之。詳見孟子末篇。
けだし、その流れを同じくし汚に合し、以て世に媚ぶるなり。故に郷人の中に在りては、独り「愿」を称さる。夫子その徳に似て徳に非ざるを以て、反って徳を乱すとし、故に以て「徳の賊」と為し、深くこれを悪むなり。詳しくは孟子末篇を見よ。
つまるところ、この類の人は、みんな同じ流れに乗って汚れていき、世間によく思われようとしているのである。このため、地域の人たちの中では、その人たちだけが「善人」と評価されるのだ。孔子先生は、彼らが徳あるように見えて徳ある者でないことから、これは反って徳についての認識を混乱させてしまうことになる、と考えて、彼らのことを「徳の盗人じゃ!」と呼んで、深くこれを憎まれたのである。
さらに詳しいことは「孟子」の最終章(尽心章下)を見よ。
とのこと。「ほんとか?」と思うかも知れませんが、わたしではなく朱晦庵先生が言っているのだからほんとですよ。
朱先生が「見ろ」と言っているので早く寝たいんですけどガマンして「孟子」尽心下篇を見てみます。
―――孟子の高弟・万章さんが訊きました。
一郷皆称原人焉。無所往而不為原人。孔子以為徳之賊、何哉。
一郷みな原人と称す。往くところとして原人たらざるは無し。孔子以て徳の賊と為すは、何ぞや。
「地域一帯の人がみな「善人」と呼んでいる。どこにいっても善人でないことはないわけです。それなのに、孔子先生は「徳の盗人」とされた。なんでですか?」
弟子が訊いて先生が答えてそれを記録に遺す、要するに八百長質問です。
―――孟子先生が答えた。
非之無挙也。刺之無刺也。同乎流俗、合乎汚世、居之似忠信、行之似廉潔。衆皆悦之、自以為是而不可与入堯舜之道。故曰徳之賊也。
これを非とするも挙する無きなり。これを刺すも刺す無きなり。流俗に同じて汚世に合し、これに居れば忠信に似、これを行えば廉潔に似る。衆みなこれを悦び、自ら以て是(ぜ)にして堯舜の道にともに入るべからずと爲す。故に曰く「徳の賊なり」と。
そいつらを非難しても避難する材料がない。批判しても批判する材料がない。彼らはみんなと一緒に流れて汚れた世の中に合意していき、じっとしていれば真心あふれ、行動すれば潔癖なふうに見える。ひとびとはみんな彼らが好きになり、「この人と一緒なら大丈夫だ、わざわざ堯・舜の道、聖人たちの目指したよりよい世界を作る行動に入る必要はない」と考える。それゆえ、孔子先生は「徳の盗人」と言ったのだ。
孔子曰、悪似而非者。・・・・悪郷原、恐其乱徳也。
孔子曰く、似て非なる者を悪む。・・・(中略)・・・、郷原を悪む、その徳を乱すを恐るるなり、と。
孔子先生はおっしゃった。「いいものに見えるが、そうでないもの、が大嫌いじゃ。(いくつか例を挙げたあと)いなかの善人どもが大嫌いじゃ。あいつらは、徳の価値を乱してしまうかも知れんからじゃ」と。
きみたちに言っとくが、
君子反経而已矣。経正則庶民興。庶民興斯無邪慝矣。
君子は経(けい)に反(かえ)るのみ。経正なれば庶民興る。庶民興れば、すなわち邪慝無し。
きみたちは、つねに正常な状態に戻るように心掛けなさい。正常な状態であれば、民衆は元気になる。民衆が元気になれば、よこしまなこと、隠れた悪事は無くなるのじゃ。
お分かりいただけましたか。なんとなく腑に落ちない、と思うかも知れませんが、先生方が一生懸命言っているので、分かってやってください。
肝冷斎は腑に落ちないので、そっと宮崎市定先生の「論語」(岩波現代文庫2000。原著1974)を見てみます。宮崎先生の訳は、
子曰く、賞められ者になろうとしている青年ほど鼻もちならぬ偽者はない。
です。わかりやすくするように、ゴチック部分を補ったようです。孔子先生の七十ぐらいの時のコトバと考えれば人間的には理解できますが、あんまり腑に落ちないなあ。
私ごとながら、今日は何年振りかで職場の忘年会というのがあったので出てみました。早めに終わったけどアルコール摂取のため、家に帰ってきてPCの前でだいぶん寝込んでしまいました。いかん、短く終わらせて早く風呂入って寝る、寝なければならんぞ、と思って「幽夢影」の一節だけなら早く終わると思った・・・のですが、「論語」に入り込んで大失敗です。明日まだ平日ですが、酔いが醒めて目が覚めてきたし明日起きられるはずない。また腹まで減ってきました。嗚呼、どうすればいいのか。もうダメだ。