欲聞之則斎(これを聞かんと欲すれば則ち斎せよ)(「大戴礼記」)
お風呂に入るだけではいかんのですね。

鏡が真実を伝える、などと誰が言ったんだね?
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儒学の基本典籍である五経のうち、「礼」に関する「経典」はあるのかないのか、という大議論があります。科挙の試験問題の範囲として勉強しなければならないテキストは何か、ということですから、すごい大問題だったわけです。唐代には、「無い」ので、仕方ないから古代の儒者たちの「礼」に関する注釈・ノート類である「礼記」を使うことになった。しかし、ちゃんとあるはずである。北宋の王安石は「周礼」という文書がそれである、と言った。南宋の朱晦庵は「儀礼」という本だと言った。めんどくさいので三つとも経典と考えてしまおう、という人もあって、この三書を合わせて「三礼」といいます。
ところが、このうち「礼記」についてはもう一つ面倒なことがあります。唐代以来の整理で、今でも普通に我々が「礼記」と呼んでいる本は、実は前漢の戴聖(たい・せい)という人が編集したものです。これに対して、同じ「礼記」として、これよりも前に、戴徳(たい・とく。戴聖の伯父さんといわれる)が編集した本があって、そのままでは同じ名前になってしまうので、伯父さんが編集した後者を「大戴礼記」(だいたい・らいき)、甥っ子の編集した前者を「小戴礼記」(しょうたい・らいき)と呼んで区別します。というわけで、科挙で勉強しなければならない「礼記」とは「小戴礼記」のことである、したがって「大戴礼記」は勉強しなくていいので、誰も勉強しなくなって、やがて散佚して、今はその一部だけが過去の引用文などから復元されているに過ぎません・・・と長い前置きでございました。
この「大戴礼記」にこんな話がございます。
紀元前11世紀のころのこと、
武王践祚三日、召士大夫而問焉。
武王践祚より三日、士大夫を召して問えり。
武王が(殷を滅ぼして)王位についてから三日後、士大夫たちを招集して諮問した。
曰く、
悪有蔵之約、行之博、万世可以為子孫常者乎。
いずくにか、これを蔵すれば約し、これを行えば博く、万世に以て子孫の常と為すべきもの有らんか。
「どこかに、しまいこめば縮まって覚えやすく、実行に移せば影響が広くに及び、末の世までも子々孫々に常に保持させるべき「教え」はないだろうか?」
皆曰未得聞也。
みな曰く、いまだ聞くを得ず、と。
みんな、「そんなもの聞いたこともございません」と答えた。
そこで、
召師尚父而問焉。
師の尚父を召して問えり。
師尚父とは、「師匠・軍師にして父のような方」、太公望・呂尚のことです。
先生であり父でもある太公望さまをお呼びして、訊いてみた。
訊き方がちょっと違います。
黄帝顓頊之道可得見与。
黄帝・顓頊(せんぎょく)の道、得て見るべきか。
「超古代の帝王・黄帝やその子の顓頊の政治手法(を書いたような書物)は、見ることができるものだろうか」
「ほえほえ」
師尚父はおっしゃった、
在丹書、王欲聞之、則斎矣。
丹書に在り、王これを聞かんと欲すれば、すなわち斎せよ。
「丹書――赤の本――に書かれおりますな。王、その内容をお聞きになられたいのであれば、まずは物忌みをして心身を清めなければなりません」
「そうなんですか」
そこで、
王斎三日。
王、斎すること三日なり。
武王は三日間物忌みをした。
四日目、
尚父端冕奉書、道書之言。
尚父、冕を端して書を奉じ、書の言を道(い)う。
太公望は、玉のついた冠をきちんと正して一巻の書を王に奉り、その書に書かれたことを読み上げた―――。
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「大戴礼記」武王践祚篇より。続きはまた明日。
もしかして、
今だけ、カネだけ、自分だけ。
と書いてあったのではないか、と期待してはいけません。今や我が国の国是とされ、わたしどもの会社でも社是として毎日のように復唱させられているグローバリズムの金科玉条ではあります(鈴木宣弘「農業消滅」による)が、古代の東洋の人たちは現代のように進歩していなかったので、グローバリズムでは無かったのです。グローバリズムの観点からは首肯しがたいようなコトバが書かれていた。ちょこっとだけ紹介しますと、
鑑銘、見爾前、慮爾後。
鑑に銘せよ、「爾を前に見、爾の後ろを慮れ」と。
鏡にはこう刻んでおくこと。「おまえが前に見えるとき(つまりこの鏡を覗き込んだ時)、おまえの後ろ(の見えないこと)をよくよく考えよ。(世界には見えること、例えばカネと今と自分だけ、があるのではない)」
古代東洋の方がいい・・・と心の中では思っても、コトバにすれば現代の賢者たちに「論破」されてしまいますから、口を噤んでいるしかない世の中でございます。