12月29日 古代の東洋ではお話にならない?

欲聞之則斎(これを聞かんと欲すれば則ち斎せよ)(「大戴礼記」)

お風呂に入るだけではいかんのですね。

鏡が真実を伝える、などと誰が言ったんだね?

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儒学の基本典籍である五経のうち、「礼」に関する「経典」はあるのかないのか、という大議論があります。科挙の試験問題の範囲として勉強しなければならないテキストは何か、ということですから、すごい大問題だったわけです。唐代には、「無い」ので、仕方ないから古代の儒者たちの「礼」に関する注釈・ノート類である「礼記」を使うことになった。しかし、ちゃんとあるはずである。北宋の王安石は「周礼」という文書がそれである、と言った。南宋の朱晦庵は「儀礼」という本だと言った。めんどくさいので三つとも経典と考えてしまおう、という人もあって、この三書を合わせて「三礼」といいます。

ところが、このうち「礼記」についてはもう一つ面倒なことがあります。唐代以来の整理で、今でも普通に我々が「礼記」と呼んでいる本は、実は前漢の戴聖(たい・せい)という人が編集したものです。これに対して、同じ「礼記」として、これよりも前に、戴徳(たい・とく。戴聖の伯父さんといわれる)が編集した本があって、そのままでは同じ名前になってしまうので、伯父さんが編集した後者を「大戴礼記」(だいたい・らいき)、甥っ子の編集した前者を「小戴礼記」(しょうたい・らいき)と呼んで区別します。というわけで、科挙で勉強しなければならない「礼記」とは「小戴礼記」のことである、したがって「大戴礼記」は勉強しなくていいので、誰も勉強しなくなって、やがて散佚して、今はその一部だけが過去の引用文などから復元されているに過ぎません・・・と長い前置きでございました。

この「大戴礼記」にこんな話がございます。

紀元前11世紀のころのこと、

武王践祚三日、召士大夫而問焉。

曰く、

悪有蔵之約、行之博、万世可以為子孫常者乎。

皆曰未得聞也。

そこで、

召師尚父而問焉。

師尚父とは、「師匠・軍師にして父のような方」、太公望・呂尚のことです。

訊き方がちょっと違います。

黄帝顓頊之道可得見与。

「ほえほえ」

師尚父はおっしゃった、

在丹書、王欲聞之、則斎矣。

「そうなんですか」

そこで、

王斎三日。

四日目、

尚父端冕奉書、道書之言。

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「大戴礼記」武王践祚篇より。続きはまた明日。

もしかして、

と書いてあったのではないか、と期待してはいけません。今や我が国の国是とされ、わたしどもの会社でも社是として毎日のように復唱させられているグローバリズムの金科玉条ではあります(鈴木宣弘「農業消滅」による)が、古代の東洋の人たちは現代のように進歩していなかったので、グローバリズムでは無かったのです。グローバリズムの観点からは首肯しがたいようなコトバが書かれていた。ちょこっとだけ紹介しますと、

鑑銘、見爾前、慮爾後。

古代東洋の方がいい・・・と心の中では思っても、コトバにすれば現代の賢者たちに「論破」されてしまいますから、口を噤んでいるしかない世の中でございます。

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