終不能解(ついに解する能わず)(「春冰室野乗」)
みなさま、今宵は寒いので、こたつにでも当たっておられることでしょう。どうせぬくぬくしておられるなら、身も心もさらに冷える「清代野史」のおもしろさを味わいましょう。

こたつに当たってぬくぬくしているやつらには、呪文「雪ダルマ寒波」をお見舞いするダルマー!
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乾隆帝が退位され、嘉慶帝が即位されました(嘉慶元年(1796))。
しかし、ご承知のとおり、実権は上皇の乾隆帝が握っておられたのでございます。
一日早朝已罷、単伝和坤入見。
一日早朝すでに罷み、単伝して和坤入見す。
ある日、朝からの御前会議(いわゆる朝廷)が終わり、和坤(わこん)が一人で上皇・皇帝に謁見に入った。
和坤は乾隆帝晩年の寵臣です。
上皇の乾隆帝が南面(本来の皇帝の座)し、嘉慶帝は西面(皇太子の座)しておりますところへ入室してきて、
坤跪良久。
坤、跪くことやや久し。
和坤は北面(つまり上皇の方に向かって)ひざまずき、しばらくの間動かなかった。
この間、
上皇閉目若熟寐然、口中喃喃有所語。
上皇、閉目すること熟寐のごとく然り、口中喃喃として語るところ有り。
上皇は、目を閉じたままで、まるで熟睡しているようであったが、口の中では「なむなむ」と何かを語っているのであった。
「喃喃」はネコの鳴き声の描写(「なうなう」)にも使われます。そういうよく聞き取れない言葉です。
上極力諦聴、終不能解一字。
上、極力諦聴するも、ついに一字を解する能わず。
嘉慶帝は一生懸命何を言っているか理解しようとしたが、とうとう一文字分も理解できなかった。
久之、忽啓目曰、其人何姓名。
これを久しくして、忽ち啓目して曰く、「その人、何の姓名ぞ」と。
そのまま大分時間が過ぎてから、上皇は突然目を見開いて、言った。
「そやつの姓と名は、なんであるか!」
「はあ?」
と驚く皇帝に構わず、
坤、応声対曰、高天徳苟文明。
坤、声に応じて対して曰く、「高・天・徳・苟・文・明」と。
和坤は、上皇の声に対応して答えて言った、
「こう、てん、とく、こう、ぶん、めい!」
上皇復閉目復誦不輟、移時始麾之出、不更問訊一語。上大駭愕。
上皇また閉目してまた誦して輟めず、移時始めてこれを麾きて出だし、さらに一語をも問訊せず。上、大いに駭愕せり。
上皇はまた目を閉じて、また「なむなむ」と何やら唱え続け、だいぶん時間が経ってから、ようやく手真似で和坤を退出させた。この間、質問も何も、一言も言わなかったのである。皇帝は大いに驚き、びっくりした。
数日後、皇帝は、お一人でいるとき、
密召坤問。
坤を密召して問う。
内密に和坤を呼んで、訊いてみた。
汝前日召対、上皇作何語。汝所対六字、又作何解。
汝前日の召対にて、上皇何の語を作すや。汝の対するところの六字、また何の解をか作す。
「おまえをこの間の呼んだ時、上皇はいったい何を口にしていたのか。そして、おまえの反した六文字の答え、あれは何だったのだ?」
「ああ、そのことでございまするか」
和坤はこともなげに答えた、
上皇所誦者、西域秘密呪也。誦此呪則所悪之人、雖在数千里外、亦当無疾而死、或有奇禍。
上皇誦するところは、西域秘密呪なり。この呪を誦すれば則ち悪むところの人、数千里の外に在りといえども、またまさに疾無くして死し、或いは奇禍有るべきなり。
「上皇さまが唱えておられましたのは、オリエントより伝わりましたる秘密の呪文にござります。その呪文を唱えますと、憎らしく思っている相手を、数千里離れたところにいましても、必ずコロす、あるいは不幸に陥らせることができるのでござりまする」
「はあ?」
奴才聞上皇持此呪、知所欲呪者、必為教匪奸酋。故竟以此二人名対也。
奴才(どさい)、上皇のこの呪を持するを聞き、呪わんと欲するところの者は、必ず教匪の奸酋ならんと知る。故についにこの二人の名を以て対するなり。
「奴才」は臣下の自称です。(みなさんも上司に対する時に使ってみてください。喜んでもらえると思いますよ。)
「やつがれ、上皇さまがその呪文を唱えておられるのを聞きましたので、誰を呪おうと思っておられるのかと考えてみますに、必ず白蓮教の乱の悪い首謀者たちであろう、と思い至りました。そこで、最後に「そいつの姓と名は?」と問われましたので、白蓮教主の高天徳と苟文明の名をお答えしたのでござります」
「は、はあ」
上聞之、益駭。
上これを聞きて、ますます駭く。
皇帝は、これを聞いて、さらにびっくりした。
何より驚いたのは、
坤亦嫻此術。
坤もまたこの術に嫻(なら)う。
和坤も、その呪術に習熟しているらしいことであった。
(あそこで、こいつがもしわたしの名前・愛新覚羅顒琰(あいしんかくら・ぎょうえん)と答えていたら、どうなったのだ?)
故上皇賓天後、数日即誅坤。
故に、上皇の賓天の後、数日にして即ち坤を誅せり。
このため、嘉慶四年(1799)に上皇が天に召された直後、数日ならずして和坤を誅殺なされたのだ。
という。
和坤の専権や莫大な横領が原因では無かったというのである。
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清・李岳瑞「春冰室野乗」より。あったか無かったか知らんけど、まるで目の前で見たように教えてくれます。乾隆帝と寵臣・和坤との心の触れ合い、感動しますね。そして、嘉慶帝が和坤を誅殺したのは、術がコワかっただけなのです。憎しみあってはいなかったのです。ああよかったなあ。仲良きことは美しきかな!
・・・とは、普通の人は思わないでしょうね。
こたつはもちろんエアコンもまともに動かず、ほぼ無暖房。使い捨てカイロを握り締めて更新をしております。とにかく早く風呂入ってすぐ蒲団に入らなければなりません。暖房の効いた部屋にいる人たちへの深い憎しみがわしに、かの呪文を唱えさせるのじゃ、なむなむ・・・