打呵欠(呵欠を打つ)(「水東日記」)
今日もたくさん呵欠を打ってきました。

おいらアサリでやんす。病従口入、禍従口出。でかい口をあけて無防備にしてると天敵にヤられるでやんすよ。
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「呵欠を打つ、とは、どういうことかね?」
と訊かれました。
今人以大舒気作声為打呵欠。
今人、大いに気を舒して声を為すを以て「呵欠を打つ」と為せり。
現代人(明の時代のひと)は、大きく空気を吸い込みながら声を出すことを、「呵欠(かけつ)をやらかす」と言っていますね。
「どういうことかね?」
「呵欠」(かけつ)はおそらく「噫欠」(あいけつ)であろう。「呵」と「噫」はどちらも「ああ」と声を出すこと。
韓昌黎詩、噫欠為飄風、注噫焉界切。欠或作吹。
韓昌黎の詩に、「噫欠は飄風を為す」とあり、注して「噫」は「焉」と「界」の切、「欠」は或いは「吹」と作すといえり。
「韓昌黎」は唐の大文人、昌黎先生・韓愈のことです。「切」は「反切法で表現すれば」の意味で、「反切法」は文字の音を表すのに、A・B二文字を使い、Aの頭の音とBの後ろの音で表現すること、です。ここでは、
「焉」(えん)と「界」(かい)の切 → 「(母音)」+「あい」 = 「あい」と読む。
韓愈の詩に「噫欠すると軽い風が起こる」と言い、その注に、「「噫」は「あ+あい」と読め、「欠」は写本によっては「吹」という文字になっている」とある。
とりあえず後半の「欠→吹」は無視して、
聚気為噫、張口為欠。
気を聚むるを「噫」と為し、口を張るを「欠」と為す。
空気を吸い込むのが「噫」(あい)で、口を大きく開けるのが「欠」である。
後漢・許慎の「説文解字」にも
欠、張口気悟也。
欠は、口を張りて気悟するなり。
「欠」は、口を大きく開けて、空気が逆流することだ。
と言っております。つまり、欠伸(あくび)のこと。「欠」の字はひとが大きく口を開けている姿の象形文字。
過去に、宋の孟顗(もう・ぎ)というひとは、
亢声大欠被劾。
声を亢(あ)げて大欠し、劾せらる。
(公の場で)大きく口を開けて(あくびをして)声まで出した、というので、弾劾を食らっている。
なので、人前であくびをするのは、できればやめましょう。
ところで、韓愈の詩には、別本があり、
作噫歆。
噫歆(あい・きん)と作す。
「噫欠」ではなく「噫歆」と書いてあるのだ。
「噫歆」は、
蓋警神声也。
けだし、警神の声なり。
つまり、神霊に注意を促す音だ、というのである。
そうすると、韓愈の詩句の意味は、
神に祈る声をあげると、軽く風が起こる。
になりますが、
非也。
非なり。
これはおそらく間違い。
それに、今回の問題「呵欠を打つ」とは何か、には何の関係もありません。
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明・葉盛「水東日記」巻十六より。ということで、今日も、何度も声を出しながら欠伸をしました。軽蔑している人はいると思いますが、弾劾はされないと思います。
・・・みなさんこんな話退屈だし、こんな話をにこにこしながらしている肝冷斎を「変なやつだ」と軽蔑しているかも知れませんが、こんなおもしろい話を何故にこにこしながら読まないのか、不思議な人たちだなあ。