一鼓可殲(一鼓にして殲(ころ)すべし)(「郎潜紀聞」)
そんなに簡単ではありせん。

太鼓叩いて殲滅でクマー!!
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威勢のいいこと言っててもなあ、という文章を読んでみます。
咸豊十年(1860)八月、内閣は帝の指示により、以下の文章を発布した。
近畿各州県地方士民、或率領郷勇、斉心助戦、或整餝団練、阻截路途。
近畿各州県の地方士民、あるいは郷勇を率領して斉心に助戦し、あるいは団練を整餝して路途に阻截せん。
北京近郊の各州・各県の地方の地主階級と人民のみなさん、ある方々は郷土部隊を率いて心を一つにして戦いを助けてくれているでしょうし、ある方々は義勇軍を整備して敵を道路で阻害したり切り離したりしてくれてることと思います!
今回はさらに耳よりなお話ですよ!
無論員弁兵民人等、
員弁兵民人等を論ずる無く、
文官の職にあるもの、武官の職にあるもの、兵士、一般人民のどれかを問うことなく、
今後、
如有能斬黒夷首一級者、賞銀五十両。
もしよく黒夷の首一級を斬る者は、賞銀五十両なり。
斬白夷首一級者、賞銀一百両。
白夷の首一級を斬る者は、賞銀一百両なり。
擒著名夷首一人者、賞銀五百両。
著名の夷の首一人を擒らうる者は、賞銀五百両なり。
焚搶夷船一隻者、賞銀五千両。
夷船一隻を焚搶せる者は、賞銀五千両なり。
まとめてみますと、
黒えびす一人 → 銀五十両のご褒美
白えびす一人 → 銀百両
有名えびす一人(生け捕り含む) → 銀五百両
えびすの船を一隻焼き払った場合 → 銀五千両
の賞金がついたのです。黒えびすは安いな。おまけに、
所得資財、全行充賞。欽此。
得るところの資財、すべて充賞に行わる。これを欽めや。
えびすどもを倒す過程で得られた物資や財産は、すべて倒したやつへの賞品となるのだ。これはマジメにやらんといかんぞ!
これはやらんといかん。
世に言うアロー号事件です。
時撫議未成、夷酋日驕、聖心震怒、原望中外臣庶、敵愾同仇、除辺患而壮国威、在此挙也。
時に撫議いまだ成らず、夷酋日に驕り、聖心震怒、中外臣庶を原望して、同仇に敵愾せしめ、辺患を除きて国威を壮んにするは、この挙に在り。
この時点では、まだえびすどもを鎮撫する条約の議論はまだ成されていない。この間にえびすの酋長マカートニーは日に日におごりたかぶり、皇帝の聖なる御心はカミナリのようにお怒りになった。内地や外地の臣下や庶民どもに希望を述べ、同じ敵(えびすども)に敵愾心を持たせ、辺境の外国からの侵略を除いて国の威厳を盛んにするには、ここで踏ん張るしかなかったのだ!
・・・という事態だったのである。
この時に、
当国諸臣、設能仰稟睿謨、堅持初議、数千醜類、一鼓可殲。
当国の諸臣、たといよく睿謨を仰稟し、初議を堅持せば、数千の醜類も一鼓にて殲(ころ)すべかりき。
国家の決定を荷っていた大臣方が、もしも陛下のお考えを仰ぎ受け、最初の方針を堅く保持することができたら、もしかしたら数千のみにくい種類の人類どもも、一回の太鼓で(一回進軍の合図をするだけで)殲滅し尽くすことができたかも知れないのに。
残念なことに、当時の大臣たちは、なんと、降伏してこちらから和平を求め、屈辱的な不平等条約を結ばされたのである。
即鼓棹重来、亦必弛首乞憐、断不如今日之再三要挟。蓋夷性然也。迨誤至斯、感憤何極。
即ち鼓棹重来するに、また必ず首を弛め憐れみを乞い、断じて今日の再三に挟むを要むるに如かざらん。けだし夷の性然るなり。誤りに迨ぶことここに至るも、感憤何ぞ極まらんや。
すぐに太鼓や棹を叩きて何度か攻め込めば、やはり必ず首をのばして憐れみを乞い、絶対に今のように二度も三度も厳しい要求をしてくることは無かったであろう。つまりは、えびすどもの本質はそんな程度のものなのだ。判断の間違いがついにこんなところまで国を追いつめたのだが、今、(われわれの)感情と憤慨は大爆発して、ストップするところが無いのである。
閉塞状況を打破するためには、がつんとやるしかない!
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清・陳康祺「郎潜紀聞」初筆巻四より。アロー号事件のときはえびすどもが憐れみを乞うことはなく、えびすの英仏軍が天津に来て、さらに北京まで攻めてくるかも知れん、といって皇帝以下急に弱気になって降伏してしまったのでした。著者がこの文章を書いているのは光緒六~七年(1880ごろ)のことでしょうか。まだ戊戌変法→失敗→義和団事変と進む前なので、元気があります。天の時、地の利などが違うので簡単に言いきることはできないのですが、やっぱり江戸幕府と明治政府でよかったという気がします。明治政府がもう少し優しければなあ。
一方、現代は、真っ先にグローバリズムに憐れみを乞うている・・・ように見える気がするのですが見えるだけかな?