合声喝賊(声を合わせて賊を喝す)(「洛陽伽藍記」)
外で暮らしている人や動物は寒いでしょうね。

冬も半裸の金太郎だ。クマをもやっつけるが、ヒグマはダメだろうな・・・。クマとヒグマは同じようで違いますが、内閣情報局と戦前の内閣情報部は同じようで違うのでしょうか。
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南北朝時代の北魏のころ、洛陽にはたくさんのお寺がありました。東陽門の中にある昭儀寺は尼寺で、もともとは宦官たちが建てたのですが、
寺有一仏二菩薩、塑工精絶、京師所無也。
寺に一仏二菩薩有り、塑工精絶にして、京師に無きところなり。
この寺には、仏(如来)像一、菩薩像二があり、粘土造りですばらしく、洛陽にはほかに無いものであった。
この像にはいわれがあるのである。
寺南有宜寿里、内有苞信県令段暉宅、地下常聞鐘声。
寺の南に宜寿里あり、内に苞信県令・段暉の宅有りて、地下に常に鐘声を聞く。
この寺の南側は宜寿里という町割りであるが、そこに苞信県令であった段暉の屋敷があった。この屋敷の地下からは、いつも決まった時間になると鐘の声が聞こえてきたのである。
時見五色光明、照於堂宇。
時に五色の光明見(あら)われ、堂宇を照らす。
その時には、五色の光が(地下から)湧き出てきて、建物を照らすのだった。
暉甚異之、遂掘光所、得金像一躯、可高三尺。並有二菩薩趺坐。
暉、甚だこれを異とし、遂に光所を掘るに、金像一躯、高さ三尺ばかりなるを得たり。並びに二菩薩の趺坐する有り。
段暉はたいへん不思議に思って、とうとう光の漏れてくるところを掘ってみた。すると、黄金の仏像一体、高さ一メートルぐらいのが出てきたのである。あわせて、二体のあぐらをかいて座っている菩薩像もあった。
仏像には銘が刻まれていて、
太始二年五月十五日侍中中書監荀勗造。
太始二年五月十五日、侍中・中書監・荀勗造る。
とある。太始(泰始)は晋の武帝(司馬炎)の時の年号、泰始二年は266年、前年冬に魏の禅譲を受けて武帝が即位した直後である。
泰始二年五月十五日、宮廷秘書官・内閣総務官である荀勗(じゅん・きょく)が造らせたのだ。
と書いてあった。
今は五世紀の終り頃ですから、200数十年前のものということになる。
段暉は因縁の浅からざるを思い、
遂捨宅為光明寺。
遂に宅を捨てて光明寺と為せり。
とうとう自宅を喜捨して光明寺という寺を建てた。
其後、盗者欲竊此像。
その後、盗者この像を竊(ぬす)まんとす。
それからしばらくして、盗賊がこの像を盗もうとして忍び入った。
像を動かそうとしたとき、
像与菩薩合声喝賊、盗者驚怖、応即殞倒。衆僧聞像叫声、遂来促得賊。
像と菩薩、声を合して賊を喝す。盗者驚怖し、応じて即ち殞倒す。衆僧像の叫声を聞きて、遂に来たりて賊を得たり。
「殞」(いん)は「死ぬ」ですが、「倒れる」という意味もあるので、ここはすぐに死んでいないようですから、「倒れる」にしておきます。
仏像と菩薩像は、声を合わせて、盗賊に向かって「かーーーーーっつ!!!!」と𠮟りつけた。盗賊は驚き、恐怖に襲われ、たちまち倒れて気を失った。僧侶たちが仏像の声を聞いて集まってきて、盗賊を捕らえたのであった。
そういう不思議な仏像だというので、光明寺からより大きな昭儀寺に移され、多くのひとびとの尊崇の対象とされたのである。
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北魏・楊衒之「洛陽伽藍記」巻一「城内」より。この本、北魏の都・洛陽に建てられた豪華な寺院を数々を紹介して、「仏教というのはこんな贅沢をするムダな宗教だ」ということを証明するために書かれたそうなんです。僧侶としては立派な高僧もいるのですが、お寺としては女色(尼寺は男)やり放題、武器・財物を貯えていたり宴会しまくっていたりで、「仏教は怪しからん」「僧侶は元気があってよろしい」「尼僧は、へへへ・・・」という気にさせてくれます。巻五まであるようなので、しばらく楽しめそうだぜ。へへへ。