12月26日 外は寒くなってまいりました

合声喝賊(声を合わせて賊を喝す)(「洛陽伽藍記」)

外で暮らしている人や動物は寒いでしょうね。

冬も半裸の金太郎だ。クマをもやっつけるが、ヒグマはダメだろうな・・・。クマとヒグマは同じようで違いますが、内閣情報局と戦前の内閣情報部は同じようで違うのでしょうか。

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南北朝時代の北魏のころ、洛陽にはたくさんのお寺がありました。東陽門の中にある昭儀寺は尼寺で、もともとは宦官たちが建てたのですが、

寺有一仏二菩薩、塑工精絶、京師所無也。

この像にはいわれがあるのである。

寺南有宜寿里、内有苞信県令段暉宅、地下常聞鐘声。

時見五色光明、照於堂宇。

暉甚異之、遂掘光所、得金像一躯、可高三尺。並有二菩薩趺坐。

仏像には銘が刻まれていて、

太始二年五月十五日侍中中書監荀勗造。

とある。太始(泰始)は晋の武帝(司馬炎)の時の年号、泰始二年は266年、前年冬に魏の禅譲を受けて武帝が即位した直後である。

と書いてあった。
今は五世紀の終り頃ですから、200数十年前のものということになる。

段暉は因縁の浅からざるを思い、

遂捨宅為光明寺。

其後、盗者欲竊此像。

像を動かそうとしたとき、

像与菩薩合声喝賊、盗者驚怖、応即殞倒。衆僧聞像叫声、遂来促得賊。

「殞」(いん)は「死ぬ」ですが、「倒れる」という意味もあるので、ここはすぐに死んでいないようですから、「倒れる」にしておきます。

そういう不思議な仏像だというので、光明寺からより大きな昭儀寺に移され、多くのひとびとの尊崇の対象とされたのである。

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北魏・楊衒之「洛陽伽藍記」巻一「城内」より。この本、北魏の都・洛陽に建てられた豪華な寺院を数々を紹介して、「仏教というのはこんな贅沢をするムダな宗教だ」ということを証明するために書かれたそうなんです。僧侶としては立派な高僧もいるのですが、お寺としては女色(尼寺は男)やり放題、武器・財物を貯えていたり宴会しまくっていたりで、「仏教は怪しからん」「僧侶は元気があってよろしい」「尼僧は、へへへ・・・」という気にさせてくれます。巻五まであるようなので、しばらく楽しめそうだぜ。へへへ。

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