肥冬痩年(肥ゆる冬、痩する年)(「土風録」)
冬至までは肥る。明日からは減るはず。

しもじもはイモとみかんでガマンしろ?
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冬至日相揖賀、曰拝冬。
冬至の日に相揖して賀するを、「拝冬」と曰う。
冬至の日にお互いに挨拶して「おめでとう」を言い合うのを、「冬の挨拶」という。
んだそうです。
魏晋のころといいますから西暦だと3~4世紀のころのチャイナでは、
冬至日受万国百僚称賀、因小会、其儀亜于歳旦。
冬至の日、万国百僚の賀を称するを受け、因りて小会し、その儀は歳旦に亜(つ)ぐ。
冬至の日には、(皇帝は)万国の使臣や多数の官僚たちから「おめでとうございます」と言ってもらい、その答礼にちょっとした宴会を開いた。その儀式の派手さは、元旦の儀式に次ぐものであった。
んだそうです(「宋書」礼志)。これは「冬至<元旦」説です。
何故めでたいかというと、
冬至陽気起、君道長、故賀。
冬至は陽気起こり、君の道長ず、故に賀す。
(「易」によれば、夏至の日からだんだんと陽気を排除して増えてきた陰気が、冬至の日に陽気を排除し尽くして世界を占有する―――と思ったその瞬間、)冬至の日の真夜中に、陰気の陰に小さな陽気が生まれるのである。陽気は君主とともにある気であるから、君主の勢力がこれから毎日増長していく。だから、君主に対して拝賀するのだ。
と後漢の蔡邕が言っている(「独断」)が、本当かどうか知りません。
後漢・崔寔の「四民月令」によれば、
冬至之日、進酒肴、賀謁君師耆老。一如正日。
冬至の日に、酒肴を進め、君師耆老に賀謁す。一に正日の如し。
冬至の日に、酒と肴をお薦めして、君主・師匠、長老たちにお目通りして「おめでとうございます」を言う。まったく正月元旦と同じである。
というので、これは「冬至=元旦」説です。
北宋・南宋に入ってさらに盛んになり、周遵道の「豹隠紀談」によれば、
冬至互送節物。顔度有詩。
冬至に互いに節物を送る。顔度に詩有り。
冬至の日には、お互いに季節の贈り物を交わし合う。このことについては、顔度が詩を作っている。
至節家家講物儀、迎来送去費心機。
至節家家物儀を講じ、迎え来たり送り去るに心機を費やす。
冬至の日になると、どこの家でも贈り物についての評論が始まり、
贈ってもらったもの、贈ってあげたもの、たいへんな気遣いだ。
と。これは、
今吾俗猶然。
今、吾が俗なお然り。
現代(清の時代)の我が江蘇の風習は今も同じである。
またいう、
呉門俗重至節、謂曰肥冬痩年。
呉門の俗に至節を重んじ、謂いて曰く「肥ゆる冬、痩する年」と。
呉の海岸べり(江蘇)の風俗は冬至の節句を重要視し、
みんな言うには「冬至の日は(豪勢にやって)肥満するが、年始の日は(節約するので)痩せてしまう」と。
これは「冬至>元旦」説です。
此俗所云冬至大如年也。
この俗は、云うところの「冬至大なること年のごとし」なり。
この風俗は、「冬至の重要さは年末年始と同じぐらい」ともいわれる。
これは「ごとし」だから「冬至≒元旦」説が出ました。
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清・顧張思「土風録」巻一より。清代の江蘇の風俗を記した本です。現代の我々の進んだ風俗とは違いますね。
寒くて死んでいくひとはこの国にもまだいると思うのですが、それでも「年越し派遣村」と言っていた時代とは違っていると思います。悲観的にみれば、あれが昭和六年、娘身売りの東北冷害で、その後満州国建国・日支事変で景気を取り戻した、のが今なのかも知れません。もう後戻りできないのかも知れませんが悲観的なだけだから大丈夫だ。