12月22日 冬至です。そこそこ寒い

肥冬痩年(肥ゆる冬、痩する年)(「土風録」)

冬至までは肥る。明日からは減るはず。

しもじもはイモとみかんでガマンしろ?

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冬至日相揖賀、曰拝冬。

んだそうです。

魏晋のころといいますから西暦だと3~4世紀のころのチャイナでは、

冬至日受万国百僚称賀、因小会、其儀亜于歳旦。

んだそうです(「宋書」礼志)。これは「冬至<元旦」説です。

何故めでたいかというと、

冬至陽気起、君道長、故賀。

と後漢の蔡邕が言っている(「独断」)が、本当かどうか知りません。

後漢・崔寔の「四民月令」によれば、

冬至之日、進酒肴、賀謁君師耆老。一如正日。

というので、これは「冬至=元旦」説です。

北宋・南宋に入ってさらに盛んになり、周遵道の「豹隠紀談」によれば、

冬至互送節物。顔度有詩。

至節家家講物儀、迎来送去費心機。

と。これは、

今吾俗猶然。

またいう、

呉門俗重至節、謂曰肥冬痩年。

これは「冬至>元旦」説です。

此俗所云冬至大如年也。

これは「ごとし」だから「冬至≒元旦」説が出ました。

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清・顧張思「土風録」巻一より。清代の江蘇の風俗を記した本です。現代の我々の進んだ風俗とは違いますね。

寒くて死んでいくひとはこの国にもまだいると思うのですが、それでも「年越し派遣村」と言っていた時代とは違っていると思います。悲観的にみれば、あれが昭和六年、娘身売りの東北冷害で、その後満州国建国・日支事変で景気を取り戻した、のが今なのかも知れません。もう後戻りできないのかも知れませんが悲観的なだけだから大丈夫だ。

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