12月16日 春が来たよな夢を見た

王沢竭時候変(王沢竭き時候変ず)(「浪迹叢談」)

今日は、もう季節が変わって春が来たのではないか・・・と思うような暖かさでした。

春は来ない。

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六朝・宋の大貴族・謝霊運の

池塘春草生、園柳変鳴禽。

の句は、

自謂語有神助。後人誉之者、遂以為妙処不可言伝、而李元膺又謂反覆此句実未見有過人処。皆膚浅之見也。

記得前人有評此詩者、謂此句之根在四句以前。

四句前(と三句前)には、

臥疴対空床、衾影昧節候。

と書いてある。これが「根っこ」なんだそうです。

この句は、単に季節が変わったことを言っているだけでなく、

至池塘生春草、始知為臥病前所未見者、而時節流換可知矣。次句即従上句生出。

ところで、

霊運因此詩得罪、遂有王沢竭、時候変之評。

(例えば宋・陳応行「吟窗雑録」
しかしながら、謝霊運が宋帝国に反乱を企てたとして「腰斬」(衆人環視のところで体を真っ二つに切り離す刑罰)の重刑に処せられたのは事実だが、それはこの詩のせいではない。

夫古来詩案之周納人罪者多、于論詩何与乎。

詩は詩の論理の中で評価されるべきものであって、それと現実の世界との接点について論ずることと混同してはならない。

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清・梁章矩「浪迹叢談」巻十より。十九世紀の人だからかなり近代的ですね。それにしても、王の恵みも尽きることがありますので、逃げる時はみんなすごい勢いで逃げていきます。

謝霊運は前代の晋王朝以来の大貴族・謝氏の当主、しかも詩才に溢れ、自由気ままな生活を楽しんでいるというので朝廷の問責を受け、その際に私兵を以て抵抗し、こんな詩を作ったのが反乱罪で腰斬に処せられた直接の原因といわれます(「宋書」本伝による)。

韓亡子房奮、秦帝魯連恥。本自江海人、忠義感君子。

「わたしも彼らのように滅んだ国(晋)のために帝国(宋)と戦うのだ!」としか解釈しようがありません。

「子房」はもちろん漢・高祖の名臣、張良、字・子房のこと。

秦滅韓。良、悉以家財、求客刺秦王、為韓報仇。以大父父五世相韓故。

かくして東海に力士を得て、博浪沙で鉄槌を投げて車ごと秦王を狙撃せんとしたのであったが・・・。(「史記」巻五十五「留侯世家」より)

「魯連」は戦国・斉のひと魯仲連のことで、秦が趙を攻めた時、趙の食客であった魯仲連は魏や楚と折衝して連合して秦に当たらしめ、ついにこれを撤退せしめた。このことを「秦帝が魯仲連に恥じた」と言っているのかと思います。魯仲連が古来名高いのは、この功績に対して趙の宰相・平原君は厚く報いんとしたとき、

笑曰、所謂貴於天下之士者、為人排患、釈難、解紛乱而無取也。即有取者、是商賈之事也。

そして、この言葉を遺して、

遂辞平原君而去、終身不復見。

「史記」巻八十三「魯仲連伝」より。

しびれる、あこがれる~。とはいえ、いずれにせよ、上のような詩を作ると危険ですよ。

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