王沢竭時候変(王沢竭き時候変ず)(「浪迹叢談」)
今日は、もう季節が変わって春が来たのではないか・・・と思うような暖かさでした。

春は来ない。
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六朝・宋の大貴族・謝霊運の
池塘春草生、園柳変鳴禽。
池塘に春草生じ、園柳は鳴禽を変ず。
(いつの間にか)池のほとりには春の草が生え育ち、
庭の柳に来て鳴く鳥が変わっている。
の句は、
自謂語有神助。後人誉之者、遂以為妙処不可言伝、而李元膺又謂反覆此句実未見有過人処。皆膚浅之見也。
自ら謂うに「語に神助有り」と。後人これを誉むる者、遂に以て「妙処は言伝すべからず」と為し、而して李元膺はまた謂う、「この句を反覆するに実にいまだ人を過つの処有るを見ず」と。みな膚浅の見なり。
謝霊運自身は「この句を作った時は、神さまが助けてくれたのだ」と言っている。
後の人でこの句を称賛するあまり、とうとう「この句のどこがいいかということは言葉では言えない」と説明を拒否した人がいる。
北宋の詞人・李元膺もまた「この句を何回繰り返して読んでみても、人間を惑わせるような(悪い)要素を発見することができない」と言っている。
けれど、これはみな、その皮膚の部分を論じているだけの浅はかな評論だ。
記得前人有評此詩者、謂此句之根在四句以前。
記得するに、前人のこの詩を評する者有りて、この句の根は四句以前に在り、と謂えり。
わたしの記憶するところでは、以前、この詩を評論する人がいて、「この二句には根っこがある。四句前に根があって、ここで花が開いているのだ」と言っていた。
四句前(と三句前)には、
臥疴対空床、衾影昧節候。
疴(あ)に臥して空床に対し、衾影に節候昧(くら)し。
長の病いに寝付いて空しくベッドしか目に入らず、
カーテンに隠れて、季節の廻りが見えなかった。
と書いてある。これが「根っこ」なんだそうです。
この句は、単に季節が変わったことを言っているだけでなく、
至池塘生春草、始知為臥病前所未見者、而時節流換可知矣。次句即従上句生出。
「池塘に春草生ず」に至りて、始めて臥病の前にいまだ見ざるところのものたるを知り、而して時節の流換知るべきなり。次句は即ち上句に従いて生出す。
「池のほとりに春の草が生えていた」というところまで来て、(読者が)なるほど作者は病気で寝込む前にはこれを見ていなかったのだと気づき、季節の変化(と病いの長さ)を感じる、という造りになっているのである。「庭の柳に来て鳴いている鳥も変わった」は、その句に引っ張られて出てきた句であろう。
ところで、
霊運因此詩得罪、遂有王沢竭、時候変之評。
霊運この詩に因りて罪を得、遂に「王沢竭(つ)き、時候変ず」の評有り。
謝霊運はこの詩のせいで罪を得(て死刑になっ)たという説があり、そのためにこの句の意味は、「王の恵みの徳が尽きて、季節が変化した。(今こそ革命の時である)」と読み解くべきである、という評論がある。
(例えば宋・陳応行「吟窗雑録」)
しかしながら、謝霊運が宋帝国に反乱を企てたとして「腰斬」(衆人環視のところで体を真っ二つに切り離す刑罰)の重刑に処せられたのは事実だが、それはこの詩のせいではない。
夫古来詩案之周納人罪者多、于論詩何与乎。
それ、古来詩案の人の罪を周納すること多きも、論詩において何ぞ与(あずか)らんや。
ああ。いにしえより、詩によって処罰されたというコンセプトで、いろんな人が刑罰を受けたことを説明してきた。しかし、詩文学の議論においては、何の関係もないことである。
詩は詩の論理の中で評価されるべきものであって、それと現実の世界との接点について論ずることと混同してはならない。
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清・梁章矩「浪迹叢談」巻十より。十九世紀の人だからかなり近代的ですね。それにしても、王の恵みも尽きることがありますので、逃げる時はみんなすごい勢いで逃げていきます。
謝霊運は前代の晋王朝以来の大貴族・謝氏の当主、しかも詩才に溢れ、自由気ままな生活を楽しんでいるというので朝廷の問責を受け、その際に私兵を以て抵抗し、こんな詩を作ったのが反乱罪で腰斬に処せられた直接の原因といわれます(「宋書」本伝による)。
韓亡子房奮、秦帝魯連恥。本自江海人、忠義感君子。
韓亡びて子房奮い、秦帝魯連恥ず。もと自ずから江海の人、忠義君子を感ぜしむ。
戦国の末、韓王国が滅亡したので、張子房は憤激した。
その少し前、秦帝国に、魯仲連は屈辱を与えた。
彼らももともと川や海のほとりで暮らす普通の人だったのだが、
その忠義は今もなお良質な人たちを感動させている。
「わたしも彼らのように滅んだ国(晋)のために帝国(宋)と戦うのだ!」としか解釈しようがありません。
「子房」はもちろん漢・高祖の名臣、張良、字・子房のこと。
秦滅韓。良、悉以家財、求客刺秦王、為韓報仇。以大父父五世相韓故。
秦、韓を滅ぼす。良、悉くするに家財を以て秦王を刺すの客を求め、韓のために仇を報ぜんとす。大父・父の五世に韓に相たる故を以てなり。
秦が韓を滅ぼした。張良は、家の財産をすべて投げ出して、秦王(後の始皇帝)をテロルする刺客を雇い、韓のためにかたきを討とうとした。祖父と父の二代にわたって、韓の五代の王の宰相を務めたという過去があったからである。
かくして東海に力士を得て、博浪沙で鉄槌を投げて車ごと秦王を狙撃せんとしたのであったが・・・。(「史記」巻五十五「留侯世家」より)
「魯連」は戦国・斉のひと魯仲連のことで、秦が趙を攻めた時、趙の食客であった魯仲連は魏や楚と折衝して連合して秦に当たらしめ、ついにこれを撤退せしめた。このことを「秦帝が魯仲連に恥じた」と言っているのかと思います。魯仲連が古来名高いのは、この功績に対して趙の宰相・平原君は厚く報いんとしたとき、
笑曰、所謂貴於天下之士者、為人排患、釈難、解紛乱而無取也。即有取者、是商賈之事也。
笑いて曰く、所謂、天下の士において貴ばるるは、人のために患を排し、難を釈き、紛乱を解きて取る無きことなり。即(も)し取る有らば、これ商賈の事なり、と。
笑ってこう言ったのだ。
「天下の壮漢たちの間でこうありたいと言われていることは、誰かのために憂いを除いてやり、困難を解決してやり、混乱を治めてやって、何の報酬も得ようとしないことです。もし報酬を得るのであれば、それは商売人の仕事です」
そして、この言葉を遺して、
遂辞平原君而去、終身不復見。
遂に平原君を辞して去り、身を終うるまでまた見(まみ)えず。
とうとう平原君のもとから去って行き、以降、死ぬまで二度と面会しなかった。
「史記」巻八十三「魯仲連伝」より。
しびれる、あこがれる~。とはいえ、いずれにせよ、上のような詩を作ると危険ですよ。