12月14日 討ち入りませんが蕎麦食いたい

懐徳穢行(徳を懐きて行を穢にす)(「後漢書」)

肝冷斎は身の回りを汚なくすることはできます。というか得意分野です。

おれはきれい好きでもー。

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半月ぐらい忘れてました。この人後漢の逢萌)の話の続きです。

王莽政権の間、遼東に隠棲していた逢萌ですが、

及光武即位、乃之琅邪労山、養志修道、人皆化其徳。

そんな時、

北海太守素聞其高、遣吏奉謁致礼、萌不答。

「隠者風情がのう・・・」

太守懐恨而使捕之、吏叩頭曰、子康大賢、天下共聞、所在之処、人敬如父。往必不獲、祇自毀辱。

と。

「このコッパ役人めが!」

太守怒、収之繋獄、更発他吏、行至労山。

だが、

人果相率以兵弩捍禦、吏被傷流血、奔而還。

次には皇帝がお召しになりました。

逢萌はさすがに労山から下りてきたのですが、山麓の待ち合わせ場所には、約束の日時からだいぶん遅れてやってきた。そして、使者に対して、

託老耄、迷路東西。

即便駕帰。

その後、

以寿終。

ということでございます。

ところで、

初、萌与同郡徐房、平原李子雲、王君公相友善。並暁陰陽、懐徳穢行。

おかげで四人とも役人生活を脱出して、死刑になったり反乱軍に殺されたりしなかった。

このうち、逢萌の人生は上述のとおり。周囲の人民に守られていました。

房与子雲、養徒各千人。

徐房と李子雲は、弟子や子分をそれぞれ千人抱えて(自衛して)いた。

いま一人の王君公は、

遭乱独不去、儈牛自隠。

王莽の滅亡前後の混乱期にも、山中には隠れずに、ウシの仲買人をして社会の中で生きていた。

そこで、

時人謂之論曰、避世牆東王君公。

同時代の論者たちは彼らのことをあげつらって言った、

「四人の中で、本当におえら方たちの世界から逃げ出したのは、平原出身の王君公だけだね」

と。

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「後漢書」巻83「逸民列伝」より。王君公も当初は役所勤めしていたらしいのですが、うまく辞めることができたのです。どうやったのでしょうか。

晋・嵆康「高士伝」にいう                                                                                

君公明易、為郎。数言事不用、乃自汚与官婢通、免帰。詐狂儈牛、口無二価。

とのことです。

へへへ。わたしどももあやかりたいもんでございやす。みなさんは?

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