懐徳穢行(徳を懐きて行を穢にす)(「後漢書」)
肝冷斎は身の回りを汚なくすることはできます。というか得意分野です。

おれはきれい好きでもー。
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半月ぐらい忘れてました。この人(後漢の逢萌)の話の続きです。
王莽政権の間、遼東に隠棲していた逢萌ですが、
及光武即位、乃之琅邪労山、養志修道、人皆化其徳。
光武の即位に及びて、すなわち琅邪労山に之(ゆ)き、志を養い道を修むるに、人みなその徳に化す。
後漢王朝が建国され、光武帝が即位(紀元25年)したころになると、山東・琅邪の労山に移り住み、精神を養い道の教えを修めていたが、そのあたりの人は彼の人徳に感じていい人になっていた。
そんな時、
北海太守素聞其高、遣吏奉謁致礼、萌不答。
北海太守、もとその高きを聞き、吏を遣りて奉謁して礼を致さんとするも、萌答えず。
北海郡の太守・某が、逢萌の高尚な人物であることを以前から聞き及び、部下を派遣して面会し贈り物を届けさせてきた。しかし、萌は返礼(に太守のところに赴くなどのこと)をしなかった。
「隠者風情がのう・・・」
太守懐恨而使捕之、吏叩頭曰、子康大賢、天下共聞、所在之処、人敬如父。往必不獲、祇自毀辱。
太守、恨みを懐きてこれを捕せしめんとするに、吏、叩頭して曰く、「子康の大賢、天下共に聞き、所在の処にては人敬して父の如し。往くも必ず獲ず、ただに自ら毀辱するのみならん」と。
太守・某はこの事で恨みを抱き、部下に萌をしょっ引いてくるように命じた。だが、部下は、頭を地面にがんがん打ちつけるぐらいペコペコして、言った、
「あわわ、子康さま(逢萌の字)は大賢者だと、天下に知らない者もありませぬ。お住まいの近くの人民どもは父のように尊敬し親愛しております。しょっ引きに行ったところで連行してくることはできますまいから、ただ殿様の権威とお名前を傷つけるだけでございましょう」
と。
「このコッパ役人めが!」
太守怒、収之繋獄、更発他吏、行至労山。
太守怒り、これを収めて獄に繋ぎ、更に他吏を発して行きて労山に至らしむ。
太守さまはお怒りになりまして、この部下を職務命令違反で牢屋に放り込んでしまった。代わりに別の部下に命じて労山まで行かせたのだった。
だが、
人果相率以兵弩捍禦、吏被傷流血、奔而還。
人果たして相率いて兵弩を以て捍禦し、吏傷つけられて流血し、奔りて還れり。
周辺住民たちは互いに相談して剣戟やいしゆみを用意して逢萌に近づかせないように防御したので、使いの部下は流血の傷を負わされて逃げ帰ってきた。
次には皇帝がお召しになりました。
逢萌はさすがに労山から下りてきたのですが、山麓の待ち合わせ場所には、約束の日時からだいぶん遅れてやってきた。そして、使者に対して、
託老耄、迷路東西。
老耄にして東西に迷路するに託せり。
遅刻の理由を言うに、
「耄碌してしまっておりましてな、西と東がわからなくなって道に迷っておりましたんじゃ」
と。
朝廷所以徴我者、以其有益於政。尚不知方面所在、安能済時乎。
朝廷我を徴す所以のものは、その政に有益なるを以てならん。なお方面所在すら知らず、いずくんぞ能く時を済(すく)わんや。
「おかみがわしをお呼びになるのは、(単なる興味だけではなく)たみくさを治めるのに何かの役に立つ、とお思いだからでございましょう。ところが、このように方向やら自分がどこにいるのやらもわからないのでございますれば、時の課題の解決に何の力になりましょうか」
即便駕帰。
即ち便駕して帰れり。
そのまま、またウマに乗って山中に帰ってしまったのだった。
その後、
以寿終。
寿を以て終わる。
普通に長生きして、亡くなった。
ということでございます。
ところで、
初、萌与同郡徐房、平原李子雲、王君公相友善。並暁陰陽、懐徳穢行。
初め、萌と同郡の徐房、平原の李子雲・王君公と相友善たり。並びに陰陽に暁るく、徳を懐きて行を穢せり。
当初、逢萌と同郷の都昌のひと徐房、隣町の平原の李子雲、王君公の四人はお互いによき友であった。みんな陰陽の問題(易の将来予想術)に明るく、立派な人格を持ちながら行動はダメに振る舞っていた。
おかげで四人とも役人生活を脱出して、死刑になったり反乱軍に殺されたりしなかった。
このうち、逢萌の人生は上述のとおり。周囲の人民に守られていました。
房与子雲、養徒各千人。
房と子雲は、徒各千人を養う。
徐房と李子雲は、弟子や子分をそれぞれ千人抱えて(自衛して)いた。
いま一人の王君公は、
遭乱独不去、儈牛自隠。
乱に遭うも独り去らず、牛を儈(かい)して自ら隠る。
王莽の滅亡前後の混乱期にも、山中には隠れずに、ウシの仲買人をして社会の中で生きていた。
そこで、
時人謂之論曰、避世牆東王君公。
時人これを論じて謂いて曰く、「世を避けしは牆東の王君公」と。
同時代の論者たちは彼らのことをあげつらって言った、
「四人の中で、本当におえら方たちの世界から逃げ出したのは、平原出身の王君公だけだね」
と。
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「後漢書」巻83「逸民列伝」より。王君公も当初は役所勤めしていたらしいのですが、うまく辞めることができたのです。どうやったのでしょうか。
晋・嵆康「高士伝」にいう
君公明易、為郎。数言事不用、乃自汚与官婢通、免帰。詐狂儈牛、口無二価。
君公は易に明らかにして郎と為る。しばしば事を言うも用いられず、すなわち自ら汚して官婢と通じ、免れて帰る。詐狂して牛を儈し、口に二価無し。
王君公は周易に詳しく、(前漢の末に)中央の参事官となっていた。何度も時弊の解決策を献策したが誰も彼の策を実行に移してくれなかった。そこで、自覚的に破廉恥行為を行い、なんと、役所に所有されている下女とやりやがったのだ。これによって懲戒免職となって郷里に帰り、その後はいつわって文学や政治のことをすべて忘れてしまい、ウシの仲買人をしていたが、値切ったり吹っ掛けたりすることなく、初めにつけた額でぶれずに売り買いしたので評判であった。
とのことです。
へへへ。わたしどももあやかりたいもんでございやす。みなさんは?