執氷咎夏虫(氷を執りて夏虫を咎む)(「書譜」)
虫を責めてもしようがない・・・と思ったら、知り合いだったりするカモ。

地中は暖かいので案外生き残るでアリー!
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晋の貴族で今に至るも書聖と評される王羲之さまが、会計の蕺山(しゅうざん)に隠棲していた時、
見一老姥持六角竹扇売之。
一老姥の六角の竹扇を持してこれを売るを見る。
一人のばばあが、六つの角のある竹製の扇を何本か持って、行商しているのが目に入った。
王羲之はばあさんをからかいながら、
書其扇各為五字。
その扇に書しておのおの五字を為せり。
売り物の扇に、それぞれ五字ぐらいの字を書きつけてやった。
「なんといういたずらをするのじゃ」
姥初有慍色。
姥、初め慍色有り。
ばばあはその時は怒ってきた。
ところがその後、
人競買之。
人競いてこれを買う。
ひとびとは(王羲之の字だというので、)争って買い取って行った。
他日姥又持扇来。羲之笑而不答。
他日、姥また扇を持ちて来たる。羲之笑って答えず。
数日後、ばばあはまた扇を何本か持ってやってきた。(またそれに字を書いてくれ、というのであるが、)王羲之は、笑って取り合わなかった。
また、ある時、王羲之は、
詣門生家。
門生の家に詣る。
弟子の家に出かけた。
いろいろごちそうをしてもらった。
何か礼をしなければならないと思って、ふと見ると、
棐几滑浄。因書之、真草相半。
棐(ひ)の几、滑にして浄なり。因りてこれに書し、真・草相半ばす。
カヤ製の机があり、つやつやしてキレイである。そこで、その机に字を書いた。楷書と草書、同じぐらいの字数で、鑑賞したり手本にしたりするように書いてやったのである。
弟子は大変喜んだ。
ところが、数日後、その弟子が出かけている間に、そいつの親父が机を見て
為其父誤刮之。門生驚懊者累日。
その父に誤りてこれを刮(けず)らる。門生、驚き懊(なや)むもの累日なり。
おやじは(息子の落書きだと)間違って、それを削り取ってしまった。弟子は帰って来て驚き、がっかりして鬱状態になってしまい、何日も回復しなかった。
鬱状態、ツラいですね。がんばれ。君ならやれる。期待してるぞ。
いずれも「晋書」巻八十「王羲之伝」より。
これらは
知与不知也。夫士、屈於不知己、而申於知己。彼不知也、曷足怪乎。
知ると知らざると、なり。それ、士は、己を知らざるには屈し、己を知るには申(の)ぶ。彼知らざるなり、曷(なん)ぞ怪しむに足らんや。
知っているか知らないかの違いです。それにしても、さむらいは、自分をわかってくれてない人のところではペコペコして大人しくしているしかない。自分をわかってくれている人のところでは、のびのびとシゴトができる。それぐらい違うものなのに、最初のころのばばあとこの親父とは、知らないのだから、何を仕出かしても怪しむには足りません。
「老子」(第41章)に言うではありませんか、
下士聞道大笑之。不笑之則不足以為道也。
下士は道を聞きて大いにこれを笑う。これを笑わざればすなわち以て道と為すに足らざるなり。
―――下等なやつは「真実のこと」を聞くと「そんなバカなことがあるものか」と大笑いしはじめるもんじゃ。たしかに、やつらに笑われないようでは、「真実のこと」とするわけにはいかないじゃろう。
と。
知らないやつにわからせようとしてもしようがない。
豈可執氷而咎夏虫哉。
あに氷を執りて夏虫を咎むべけんや。
氷のことを知らないとは何事か、と夏の間しか生きていない虫を責めても仕方がありますまい。
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唐・孫過庭「書譜」第六篇より。書の芸術についていろいろ述べてきて、王羲之が最高や!と宣言したりして、最後が第六篇で、そのまた最後にこの文章があります。孫過庭の一番言いたいことがこれなんでしょう。わからない奴にわからせることはできません。・・・いかん! 君、そんなホントのこと言ったら怒られるぞ! と注意したくなってきますよね。ね?