三綱絶矣(三綱絶したり)(「後漢書」)
綱が切れると落ちますよ。

「うるせえ、じじい!」「うわあ何をするんじゃ!」と、上司と部下の綱は最弱クラスだ。
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前漢の終わりごろ、北海・都昌のひと逢萌、字・子康は、家貧しく、生活のために県の亭長(警察署長兼郵便局長兼宿屋のおやじ、みたいな職)をしていたが、
時尉行過亭、候迎拝謁。既而擲楯、歎。
時に尉の行亭を過ぎ、候迎拝謁す。既にして楯を擲ちて歎く。
ある時、中央の課長のご一行が彼の勤める亭を通った。彼は出迎えし、課長にうやうやしく拝謁をし、ごあいさつをした。・・・無事あいさつを終えて次の宿場へ送り出したところで、突然(護衛のために)手にしていた楯を放り出して、ためいきをついた。
大丈夫安能為人役哉。
大丈夫、いずくんぞよく人のために役せられんや。
「ああ、ちゃんとした男が、どうして他人に使われているままでいいものか」
遂去之長安学、通春秋経。
遂に去りて長安に之きて学び、春秋経に通ず。
とうとう辞職して、長安に行って勉強をしはじめ、「春秋」の学問に通じた。
「春秋の学」は、「春秋は歴史の本だから歴史の勉強でちゅね!」というのはコドモ以下のオロカ者です。漢代の「春秋学」は、春秋の書に出て来る地震や日月食、星変などの記録と、その直後の歴史的事実(謀反とかテロとか)との組み合わせを研究し、陰陽の消長、天文の動向から未来を予測する学問、いまでいうなら経済学や物理学に匹敵する重要な科学だったのです。「春秋経」の研究者は、花形の科学者、テレビに出て来る評論家のようなスターでした。
さて、このころ、前漢王朝はほとんど末期的様相を呈しており、
王莽隔絶平帝外家衛氏。王宇恐帝大後見怨、以為莽不可諫而好鬼神。
王莽、平帝の外家衛氏を隔絶す。王宇、帝の大なる後に怨まれんことを恐るも、以為(おもえら)く莽諫むべからずして鬼神を好むと。
権力者の王莽が平帝(在位前1~後6)とその外戚の衛氏との連絡を断絶させてしまった。王莽の息子の王宇は、平帝が成長した後に自分たち王氏を怨むのではないかと恐れた。ただし、父の王莽は人の忠告など聞く男ではない。一方で精霊や心霊世界を信用し、縁起を担ぐ人間でもあった。
「よし、それでは・・・」
即夜持血灑莽第門。
即ち夜、血を持して莽の第の門に灑ぐ。
真夜中に、容器に入れた(いけにえの)血を、王莽の屋敷の扉にぶっかけたのである。
案の定、王莽は縁起が悪いと大騒ぎを始めた・・・が、
吏発覚之、莽執宇送獄、飲薬而死。
吏これを発覚し、莽、宇を執らえて獄に送るに、薬を飲みて死せり。
警察がこのことを探り出し、王莽は激怒して息子の王宇を捕らえて獄に入れ、次いで毒薬を差し入れて自殺させてしまった。
(以上の事件については「前漢書」王莽伝に載っているものです)
この事件を知った逢萌は友人に言った、
三綱絶矣。禍将及人。
三綱、絶したり。禍、まさに人に及ばんとす。
人間にとって重要な三つの人間関係の綱がある。父が子を殺して、そのうちの一つが切断されてしまったのだ。次にひどい目に逢うのはわしら普通の人間だぞ!」
「三綱」とは、君と臣、父と子、夫と妻の三つです。
即解冠挂東都城門帰、将家属浮海、客於遼東。
即ち冠を解きて東都の城門に挂けて帰り、家属を将いて海に浮かびて遼東に客たり。
そういうと、すぐに社会人の徴表でもある冠を脱いで、洛陽城の東門に引っ掛ける(古来、辞職の意思表示とされる)と、家族や家の子郎党らを引き連れて船に乗って黄海に浮かび、遼東半島に移転してしまった。
当時、ようやく認識されてきた倭国の動きも気になりますね。
さて、王莽は漢から禅譲を受けて、新王朝を建国しました(始建国元年(9))。。
有頃、乃首戴瓦盎、哭於市。
有頃、すなわち首に瓦盎(がおう)を戴き、市に哭す。
しばらくすると、逢萌は、町の市場に出てきて、大声で泣き叫んだ。
叫んで、曰く、
新乎新乎。
新か、新か。
「(滅びゆくのは、)新なのか。新なのか」
と。
因遂潜蔵。
因りて遂に潜蔵せり。
危険な発言をしたことで手配されたが、とうとう潜み隠れてどこにいるか分からなくなってしまったのである。
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「後漢書」巻八十三より。逢萌伝にはまだ続きがありますが、今日のところはここまでといたします。市場で「滅びゆくものは、〇か、〇か」などと歌っていてはヤラれてしまいます。みなさん、潜み隠れて身をくらませ、目立たぬようにしてくださいね。