12月1日 緊張感も切れていますが

三綱絶矣(三綱絶したり)(「後漢書」)

綱が切れると落ちますよ。

「うるせえ、じじい!」「うわあ何をするんじゃ!」と、上司と部下の綱は最弱クラスだ。

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前漢の終わりごろ、北海・都昌のひと逢萌、字・子康は、家貧しく、生活のために県の亭長(警察署長兼郵便局長兼宿屋のおやじ、みたいな職)をしていたが、

時尉行過亭、候迎拝謁。既而擲楯、歎。

大丈夫安能為人役哉。

遂去之長安学、通春秋経。

「春秋の学」は、「春秋は歴史の本だから歴史の勉強でちゅね!」というのはコドモ以下のオロカ者です。漢代の「春秋学」は、春秋の書に出て来る地震や日月食、星変などの記録と、その直後の歴史的事実(謀反とかテロとか)との組み合わせを研究し、陰陽の消長、天文の動向から未来を予測する学問、いまでいうなら経済学や物理学に匹敵する重要な科学だったのです。「春秋経」の研究者は、花形の科学者、テレビに出て来る評論家のようなスターでした。

さて、このころ、前漢王朝はほとんど末期的様相を呈しており、

王莽隔絶平帝外家衛氏。王宇恐帝大後見怨、以為莽不可諫而好鬼神。

「よし、それでは・・・」

即夜持血灑莽第門。

案の定、王莽は縁起が悪いと大騒ぎを始めた・・・が、

吏発覚之、莽執宇送獄、飲薬而死。

(以上の事件については「前漢書」王莽伝に載っているものです)

この事件を知った逢萌は友人に言った、

三綱絶矣。禍将及人。

「三綱」とは、君と臣、父と子、夫と妻の三つです。

即解冠挂東都城門帰、将家属浮海、客於遼東。

当時、ようやく認識されてきた倭国の動きも気になりますね。

さて、王莽は漢から禅譲を受けて、新王朝を建国しました(始建国元年(9))。。

有頃、乃首戴瓦盎、哭於市。

叫んで、曰く、

新乎新乎。

と。

因遂潜蔵。

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「後漢書」巻八十三より。逢萌伝にはまだ続きがありますが、今日のところはここまでといたします。市場で「滅びゆくものは、〇か、〇か」などと歌っていてはヤラれてしまいます。みなさん、潜み隠れて身をくらませ、目立たぬようにしてくださいね。

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