筍不抽得(筍を抽き得ず)(「伝習録」)
大腸ポリープ取ってもらってきました。二年に一回取ってもらってますが、また生えてきてました。タケノコのように旺盛な生命力です。タケノコ食いたくなってきました。来年が待ち遠しいなあ。来年のタケノコを、また元気に食べられるであろうか。

おいらの方が栄養価高いよ!
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明の時代です。
質問します。
良知一而已。文王作彖、周公繋爻、孔子参易。何以各自看理不同。
「良知」は一なるのみ。文王、彖を作り、周公、爻を繋け、孔子、易に参す。何を以て各自に理を看ること同じからざる。
「良知」の解説はめんどくさいので、とりえあず「ほんとの知恵」と訳しておきます。
ほんとの知恵は、たった一つしかない(、それがすべてのものを貫いているのだ)という先生のお考えを伺っておりますが、どう考えてもわからないので教えてください。
聖人である周の文王は易に「彖(たん)伝」という注をおつけになりました(と伝統的には言われています)。その子の聖人・周公旦は「易」の384の爻について、それぞれに「爻辞」という占いのコトバを記入しました(と伝統的には云々)。春秋末の聖人・孔子は、易に十の論文を付け加えてわかりやすくしました(と伝統的に云云)。このお三方は、どうしてそれぞれに違った目で、真理をご覧になられ(てそれぞれ違った注釈を遺され)たのでしょうか。
先生はおっしゃった。
聖人何能拘得死格。大要出於良知同、便各為説何害。
聖人なんぞよく死格に拘り得んや。大要、良知より出でて同じければ、すなわちおのおの説を為すも何の害あらん。
「聖人さまが、どうして身動きのならん枠の中に拘束されてしまうことがあろうか。重大なポイントにおいて良知を根拠にすることだけ同じなら、あとはそれぞれの説明の仕方をすることで、何も問題はないだろう」
そして、窓の外を示しながら、言った、
且如一園竹、只要同此枝節、便是大同。若拘定枝枝節節、都要高下大小一様、便非造化妙手矣。
しばらく一園竹の如き、ただこの枝節の同じきことを要すれば、すなわちこれ大同なり。もし枝枝節節に拘定し、すべて高下大小一様ならば、造化の妙手に非ざらん。
この庭の竹について考えてみなさい。単に、枝や節がある、ということについて同じであることを求めれば、これは「礼記」にいう「大同」、すなわち「みんな同じ」であろう。しかし、もし枝・節の一つ一つに拘わってどの竹もどの竹も節の高さ・低さ、枝の大きい・小さい、みんな全く同じなら、大自然はあまり巧妙とは言い難い」
次に質問者(黄勉斎)の方に向き直り、黄勉斎を「どーーーーーん」と指さして、
汝輩只要去培養良知。良知同、更不妨有異処。
汝輩、ただ良知を培養するを要め去れ。良知同じければ、更に異処有るを妨げず。
「おまえたちは、ただただ、「ホントの知恵」を培い養うことを求めて行け。「ホントの知恵」さえ同じものを持っていれば、それ以外のところで違っていてもかまわん」
「はあ」
汝輩若不肯用功、連筍也不曾抽得。何処去論枝節。
汝輩、もし用功を肯んじざれば、筍を連ぬるもまた曾て抽き得ざらん。何れの処に去きて枝節を論ぜんや。
「おまえたちが、もしそこのところ(ホントの知恵を求めること)に努力をするのを嫌がるならば、タケノコが何本かあっても、どれも抜き取ることができないぞ。タケノコも無しにどこで枝や節について語り合えることができようか」
タケノコの根っこは繋がってますからね。
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明・王陽明+その弟子「伝習録」下より。陽明先生は、タケノコが気になってしようがなかったんだと思います。あの味、あの食感、しかもカロリーは低。ワンダフルじゃ!みたいな感じ。