目前餓死(目前に餓死せん)(「集異新抄」)
さっきまで腹が減って死にそうでした。しかし寸前に大量に食った。

「おのれまだ生きておったか」「うぬこそすみやかに去り行くべし」
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明の時代のことでございます。
太守まで務めた我が蘇州の某氏は、
富甲一郡、居恒戚戚、若不聊生。
富、一郡に甲たるも、居ること恒に戚戚、聊生せざるがごとし。
その財産はこのへん一帯でも一番というぐらいの富豪であったが、普段からいつもセコセコして、生きていくことさえできないかのようであった。
大金持ちなのに、おカネにうるさい人だったのです。
ある日、客人の前でため息とついて言うには、
安従得千金、便不憂此生。
いずくよりか千金を得ば、すなわちこの生を憂えず。
「どこかから千万円ぐらい得られないものか。そうなれば人生心配無く生きていけるのですが」
すると、客人は、
撫膺而唏噓。
撫膺して唏噓せり。
胸を撫で(悲しみを表す仕草)て、すすり泣いた。
「どうなされた?」
吾願視公更奢。須千十金。
吾が願いは公を視るにさらに奢れり。千十金を須う。
「わたしの願いは、あなたのそれよりさらに贅沢なのです。千十万円が必要なのだから」
かなり具体的な数字が出されました。
卿貧士、安用此。
卿貧士なり、いずくにかこれを用う。
「おまえさんのような貧乏士族が、それだけのカネを何に使いなさるのかな」
すると客人は言った、
以千金贈公、以十金付酒家胡。
千金を以て公に贈り、十金を以て酒家胡に付さん。
「そのうち一千万円はあなたに差し上げ(てあなたの心配を除き)、あとの十万円を胡の居酒屋に預けて、飲み代を引いてもらうようにしたい」
からかっているのですが、
「ほほう」
太守為之掀髯。
太守これがために掀髯す。
某太守どのは、これを聴いて、うれしそうにヒゲをひねった。
自分がおカネをもらえると聞いたので、ご機嫌になったようです。
また、ある時、某太守は、
以銀工数人製酒鐺。
銀工数人を以て酒鐺を製す。
「鐺」(とう)は、日本では「こじり」(刀の鞘の先っぽ)ですが、チャイナでは「三本足のなべ」のこと。
銀細工師を数人招請して、住み込みで酒沸かしのナベを作らせた。
鼓爐方熾、鉗鏨錚然。
爐を鼓することまさに熾ん、鉗・鏨錚然たり。
炉に空気を送り込んで火勢はどんどん強く、かなばさみとたがねのぶつかり合う金属音ががんがん聞こえてきていた。
そこへ友人の某公がやってきた。
座談良久、語及生産、太守復攅眉。
座談やや久しく、語生産に及ぶに、太守また攅眉す。
対座してしばらく話していたが、やがて内容が財産づくりのことに及ぶと、某太守は眉根を寄せた。
「どうされましたかな?」
弟更無余望、惟恐目前餓死耳。
弟(てい)、さらに余望無し、ただ目前の餓死を恐るのみ。
「わたしには、もう余計な希望などございません、ただ、目の前まで迫っている貧困・餓死が恐ろしいだけでござる」
客は笑って言った、
兄餓猶可、可憐諸匠人。
兄の餓はなお可なり、諸匠人を憐れぶべし。
「おまえさんが餓死しようが構わんが、細工師たちが手当をもらえなくなると可哀そうだな」
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「集異新抄」巻五より。またいい本見つけてきました。文物出版社稀見筆記叢刊(2017)所収。もともとは明の萬暦以降の誰かさん(佚名氏)が書いた元の本があって、これを清の李振青という人が書き写した、という稗史小説の類です。今回の某太守のエピソードは笑い話のようですが、怪奇、犯罪、不倫、残虐系のおもしろいお話がたくさん載っています。こういうのを読むと「生きているという実感」がわいてワクワクしてきますね、うっしっし。みなさんも屋根裏を散歩したり、浅草十二階から覗き見したり、密かな楽しみがございましょう。ひっひっひ。