不許軽改(軽改を許さず)(「水東日記」)
いろんな本を読むと、むかしの人は賢かったようです。・・・待てよ、現代はそれよりも進歩しているのですから、すごく賢いはず。なのに、なぜ・・・。

現役時代に職場で生き残るために作った「舞踏会のお相手占い」のキャラの一部。32人の令嬢の中から10円玉を5回振ってお相手一人を選ぶと、愛情運、金運、食事運などがわかるという優れものとして作られました。だが、わたしが作ったというだけ?で評価されず、不採用に。
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最近では我が国本土でも風水術(地理学(←もともとはこういう意味だったんです)、堪輿学などとも呼ばれます)が流行りですね。現代日本本土では「インテリアを変えて運勢も替えよう」「鬼門に玄関・トイレを作るとは!」などという「陽宅風水術」(生きている人間の生活環境学≒家相学)が中心ですが、チャイナ本土、香港、台湾、朝鮮、九州西部・沖縄などでは、「陰宅風水術」(死んだ祖先の祀り場所による生きている人への影響≒墓相学)が中心に議論、実行されてまいりました。現代でも、チャイナ本土の特に福建や廣東ではこの議論が大変盛んと聞きます。自分がマトモな人だと思っている人は、
「そんなの非科学的だね」
と言いたいと思います。わたしもそう思いますが、あんまり明確にバカにしていると「いろいろ証拠もあるのだ」と言って、あとで逆襲されるかも知れないので、じっとしています。
清の時代の記録ですが、
東広人言其地有宋墳、無唐墳。蓋自宋南渡後、衣冠家多流落至此、始変其俗事喪葬也。
東広人言うに、その地には宋墳有るも唐墳無し、と。けだし、宋の南渡の後、衣冠家多く流落してここに至り、始めてその俗を変じて喪葬を事とすなり。
廣東のやつらが言うには、「この土地には宋代以降のお墓はあるのだが、唐代以前のは無いのだ」と。どういうことかというと、北宋が滅びて南宋ができた時(1126)以降、衣服や冠など「礼」を気にする上層階級の方々がチャイナ北部から廣東に落ちぶれて来るようになり、それではじめて、風俗が変化して(それまでは祖先のお墓なんて祀らなかったのに)葬儀や服喪について問題にするようになったのである。
これを決定づけたのは、南宋の嘉定年間(1208~24)に江南からやってきた「厲布衣」(無官の厲さん)の事績である。
厲布衣者精地理之学、名傾一時。
厲布衣なる者は地理の学に精(くわ)しく、名、一時を傾く。
厲布衣さんという人は、地理学(←風水術という意味です)に精通しており、その名声は一時期たいへんなものであったという。
有経其葬、至今故老猶能言。
その葬経有りて、今に至るも故老人なお能く言う。
彼の葬地を定める見事さは、現代でもまだ土地の年寄たちは伝説的に語っている。
最近ではこんなことがあった。
広州林某者、宋元富家、永楽初中衰。以術者言祖穴向稍偏所致。
広州林某なる者は宋元の富家なるも、永楽の初めに中衰す。以て術者言うに、祖穴のやや偏して向かうの致すところなり、と。
廣東の首府・広州の林某家というのは、宋と元の時代にはたいへん富裕な家であったが、我が明朝に入って永楽年間(1403~24)の初めに、一時衰亡した。この時、風水術師が分析したところ、「祖先の墓の穴の向きがほんの少しずれているので、運勢が衰えたのですな」という結果であった。
因発地而得石。
因りて地を発するに石を得たり。
そこで、墓地を掘り返してみたところ、墓穴のふたとして、石板が埋められていた。
文字が刻み込んである。読んでみます。
布衣厲伯韶為林某葬此千載谷食之地後学浅識不許軽改
読み下してみます。
布衣・厲伯韶の林某のためにこの千載谷食の地に葬すなり。後学の浅識、軽改を許さず。
―――無官の厲伯韶が、林なんとかのために、千年間は子孫から穀物を捧げてもらえる(つまり千年間は子孫が栄える)ことになるこの土地を葬地として選んだのである。後の世の浅はかなる知識の者たちよ、軽々しく葬地を変えてはならんぞ。
「伯韶」という名前だったんですね。
徐視之、蓋下向与土封微不同耳。遂揜之。
徐ろにこれを視るに、蓋(ふた)の下向して土封と微かに不同をなせるのみ。遂にこれを揜(おお)えり。
じっくりと墓穴を調べてみたところ、墓穴のふたが少し沈んで、塚の土との間にわずかに歪みを生じていたことがわかった。これが近年の衰運の原因だったのだ。そこで、ふたの位置を直すと、再びこれを埋め直した。
今林氏頗振、庚午挙人林汝思、林廷輝皆其族也。
今、林氏すこぶる振い、庚午の挙人・林汝思・林廷輝はみなその族なり。
それ以降、現代では林氏はまたすこぶる栄えている。庚午の年(景泰元年(1450))の地方科挙試験に合格した林汝思と林廷輝は、どちらもその一族であるのだ。
・・・というふうに風水の術に効果があることは、事実を以て証明されているのです。「千年保証」だから、まだあと200年ぐらいは穀物が食えるぐらいは栄え続けていることでしょう。
ちなみに、みなさん事実を確認しようと、広東で「厲布衣のことですが・・・」とインタビューしてみてもみな首をかしげると思います。
広人土音称頼布衣云。
広人の土音、称して「頼布衣」と云う。
廣東・廣西のひとびとの方言では、「れい」とは読めずに「らい」布衣と読みます。
このため、字義と混乱して「頼りのおじさん」と理解されてしまっているので。
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明・葉盛「水東日記」巻十四より。この「日記」は景泰(1450~1456)から成化年間(1465~87)の初めに完成したと思われます(著者の葉盛は成化十年(1474)満五十四歳で死去)ので、ほぼ同時代の記録ですから科学的です。科学というコトバの定義によっては、ですけど。