言以知物(言以て物を知る)(「青箱雑記」)
めでたいめでたいと言っていれば、めでたいこともあるでしょう。

ほとけさまが何とかしてくれますよ。右下のは「やまわろ」だ。カッパのいとことに触れ込みだが、夏はカッパで冬はヤマワロになるという説もある。
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宋の時代のことですが、知識人たちの間では、よく
詩以言志、言以知物。 ・・・ ①
詩は以て志を言い、言は以て物を知る。
詩というものは、心の向かうところ(「志」)を言葉にしたものだ。言葉というものは、それによって人や物の真実を知ることができるものだ。
と言いますよね。このコトバは、
信不誣矣。
信(まこと)に誣せざるなり。
本当にウソではありませんぞ。
・・・というのですが、①は誰がそんなことを言っているのか。前半と後半に分けてみてみます。
〇詩以言志(詩は以て志を言う)
「尚書」(書経)舜典によれば、いにしえの聖天子・舜は、臣下の夔に向かってこう言ったそうなんです。
夔、命汝典楽。教冑子。直而温、寛而栗、剛而無虐、簡而無傲。
夔、汝に典楽を命ず。冑子らを教えよ。直にして温、寛にして栗、剛にして虐無く、簡にして傲る無からしめよ。
―――夔(き)よ、おまえに音楽係を命ずるぞ。各家の跡取りたちを教えるのじゃ。正直で温和、寛大で自律、意志は強いが人をいじめず、さっぱりしているが傲慢ではない、そんな風に育てるのじゃ。
音楽係か。あんまり偉そうではありませんね。それにしても、「音楽でそんな風になるんですか?」と訊きたくなってきますが、むかしはそう信じられていたのです。
詩言志、歌永言、声依永、律和声。八音克諧、無相奪倫、神人以和。
詩は志を言い、歌は言を永くし、声は永に依り、律は声を和す。八音よく諧(ととの)い、相奪倫する無く、神人以て和せん。
詩というものは心の方向性を言葉にするものだ。歌というものはその言葉を長く、節をつけて発語することだ。発語は長くすることによって人の心に届き、音階は発語を和やかにする。八種の楽器の音がよく調和し、互いに協調性を奪い取ることなければ、(音楽の中で)神と人とは心のどけくなるであろう。
―――すべておまえが掌るのだ、それを。
夔は言った、
於。予撃石拊石、百獣率舞。
於(おう)。予、石を撃ち石を拊(ふ)さば、百獣率いて舞わん。
―――ああ! わたしは石を叩き石を擦りましょう。その音に誘われて、百のケモノたちも踊り舞うことでございましょう。
ぽんぽん。この文章、ドウブツたちとともに踊った超古代の楽しい時代の思い出が溢れて、楽しさワクワクではありませんか。テントウ虫もしゃしゃり出てきそうではありませんか。
舜帝のコトバの中に、「詩言志」が出てまいります。
〇言以知物(言は以て物を知る)
「春秋左氏伝」魯昭公元年(前541)三月、魯の叔孫豹は命を受けて、虢(かく)の地において晋・楚・斉等の国々と会盟(集まって誓いを立てること)を行った。会議が終了した後、鄭の子羽は、同僚の子皮に向かって、各国の代表者たちの発言を聞いた感想を言った。
鄭の子羽は、子皮に向かって言った。
・魯の叔孫豹は、絞にして婉(厳しいが表面は柔和)
・宋の左師は、簡にして礼(ぶっきらぼうだが礼儀はある)
・楽王鮒は、字にして敬(几帳面で慎重)
・子(おまえさん)と子家は、これを持す(正反対だが引き分け)
以上の五人は
皆保世之主也。
みな保世の主なり。
みんな子孫代々栄えていく家の家長といえよう。
しかし、
・斉の国子は、人に代わりて憂う(他人のことを心配している)
・陳の子招は、憂いを楽しむ(心配すること自体を楽しんでいる)
・衛の斉子は、憂うといえども害あらずとす(心配することがあっても問題はない)
この三者は、
皆取憂之道也。憂必及之。大誓曰、民之所欲、天必従之。
みな憂いを取るの道なり。憂い必ずこれに及ばん。「大誓」に曰く、「民の欲するところは、天必ずこれに従う」と。
三人とも、心配事を引き寄せる方向にある。いずれ本当の心配事が彼らにはやってくるだろう。(今では散佚した「書経」の一節「大誓」篇に「人間がそうしようとしたら、天は必ずそれに従うものじゃ」というように。
三大夫兆憂、憂能無至乎。言以知物、其是之謂矣。
三大夫憂いに兆す、憂いよく至ること無からんや。言を以て物を知る、それこれの謂いなり。
三人の大夫どのたちは心配事が起こる兆しがあるから、心配事が起こらない、ということはありえません。「コトバによってその人物の真実がわかる」とはまさにこのことでござる。
これが「言を以て物を知る」です。これを読むと紀元前6世紀のころにはもう慣用句となっていたもののようですね。
さて――――閑話休題。宋の時代に戻ります。
江南李覯、通経術、有文章、応大科、召試第一。
江南の李覯(り・こう)は、経術に通じ、文章有り、大科に応じて、召試第一なり。
江南(実は江西・通昌)のひと李覯は、五経の研究に通暁し、文章は上手く、困難な試験に応募して、中央の試験を一番で通過した。
このひとがこんな詩を作った。
人言日落是天涯。望極天涯不見家。堪恨碧山相掩映、碧山還被暮雲遮。
人は言う、日落つるはこれ天涯と。
望みて天涯を極むも家を見ず。
恨むに堪えたり、碧山の相掩映し、
碧山また暮雲に遮らるるを。
ひとが言うには、日の落ちるあたりは天の涯だよ、と。
その天の涯を一生懸命眺めてみるのだが、ふるさとの家は見えない。
にくんでもにくみきれないことに、青い山々が天の涯を隠しているのだが、
やがてまたその山々さえ、夕暮れの雲に遮られて見えなくなってしまった。
この詩について、識者(ものしりさん)が言う、
観此詩意、有重重障礙。李君恐時命不偶。
この詩の意を観るに、重ね重ねに障礙有り。李君恐るらくは時命に不偶ならん。
「この詩の意味を見ると、何重にも障害がある、ということだ。李君の運勢も、おそらく時運に乗ることはできないだろう」
と。
後竟如其言。
後ついにその言のごとし。
その後、彼の人生はそのとおりのものとなった。
確かに試験に一番で、欧陽脩に気に入られ、後輩の王安石を感動させたほどの俊才でしたが、国史館の助教を長く勤めて五十歳ぐらいで亡くなりました。上級国民の下、ぐらいの方でしょうか。
これに対して、同じ年ごろの陳堯佐という人の詩は、
千里好山雲乍斂、一楼明月雨初晴。
千里の好山、雲たちまち斂(おさ)まり、
一楼の明月、雨初めて晴れたり。
千里の涯までよき山やまが見える。―――雲はあっという間に消えてしまった。
一軒のたかどのの上には明るい月が出た。―――雨はもう上がっていたのだ。
観此詩意、李君異矣。然則文恵致位宰相、寿余八十、不亦宜乎。
この詩意を観るに、李君と異なれり。然ればすなわち、文恵は位を宰相に致し、寿は八十に余るも、またむべならずや。
この詩の意味を見ると、晴れ晴れとしてすかっとして、李覯くんのとはずいぶん違う。そういうわけで、文恵さま(陳堯佐の死後の贈り名。「文」が入っているのはすごい地位が高い)は地位は宰相まで進まれ、寿命は八十いくつまで生きられたのであろう。また当然のことである。
んだそうです。
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宋・呉処厚「青箱雑記」巻七より。心配なんかしてはいけません。一日中、「うひゃひゃ」と楽しくやってください。わしはもうスタグフレーションが心配で心配でしようがありませんが・・・。