死何如生(死、生といかんぞ)(「後漢書」)
今日はKさんIさんにご相伴して焼肉コース料理をいただいて来ました。腹いっぱいになったら自分の分を食べるのを止めて、若いお二人に食べてもらおう・・・と思っていたのに、わしが最後のビビンバの処理係まで務めることに。なぜこんなに食べてしまうのか。そのあとだいぶん歩いたのに・・・。

ネコはなかなかしにゃにゃいにょ。
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前漢の終わりころの人、向長、字は子平は、河内・朝歌のひとであった。
隠居不仕、性尚中和、好通老易。
隠居仕えず、性は中和を尚(たっと)び、好んで老・易に通ず。
仕官せずに田舎に隠れ住んでいた。生まれつき中庸で温和な生き方を求め、「老子」と「周易」が好きで、読み込んでいた。
しかし、
貧無資食、好事者更饋焉。受之取足而反其余。
貧にして食(し)を資(と)る無く、好事者、更(かわ)りて饋る。これを受けて足るを取りてその余を反す。
貧乏で、食料を入手することができないので、篤志家の方々に交代で食べ物を贈ってもらっていた。それをもらうと、必要な分だけ受け取って、余った分はすぐに返していた。
漢が滅び新の王莽が立った時(9年)、大司空(宰相)の王邑が彼を招いたが、
連年乃至。欲薦之於莽、固辞乃止。
連年にしてすなわち至る。これを莽に薦めんとするも、固辞してすなわち止む。
何年も招かれたのでやっと出てきたが、王莽に推薦して官位に就けてやろうというのを固く断ったので沙汰止みになった。
それからは、
潜隠於家、読易至損、益卦。
家に潜隠し、「易」を読みて「損」「益」の卦に至る。
家に潜み隠れて読書をしていた。「周易」の「損」卦、「益」卦まで読み進めたときのことだ。
―――彼が読んだのは、
「損」卦辞:二簋可用享。彖伝:損益盈虚、与時偕行。
二簋用って享くべし。
「簋」(き)は、穀物を入れる竹製の入れ物のことで、天子の宗廟では八つの簋にお供え物をするのだそうですが、それが「損」(へら)されて、
二つしかなくても、(誠意があれば)ご先祖さまは祭祀をお受けくださるだろう。
その古い注釈(「彖伝」)にいう、
損益盈虚は時とともに行わる。
減らされたり増やされたり、満ち溢れたり空っぽになったり、は時によって変化するものである。
というコトバと、
「益」卦辞:損上益下、民説無疆。
上を損して下を益す、民説(よろこ)びて疆(さかい)無し。
上の方を減らして下の方に増やす。そうすれば、(下である)人民たちは喜ぶこと、果てしもないであろう。
というコトバであろう、と推測されています。
減税とかバラマキとかすると喜ぶようです。しもじもは。上の方の人はどうなのかな。知らんけど。
―――さて、向長はこれを読んで、
歎曰、吾已知富不如貧、貴不如賤、但未知死何如生耳。
歎いて曰く、吾すでに富の貧に如かざると、貴の賤に如かざるとを知る、ただいまだ死と生きるといかんかを知らざるのみ。
「ああ!」と声を出してから、言った。
「わしはもう、(「易」に、富貴や貧賤は時の運命であり、富貴な者は下の者に施した方がいいと言っていることから、)富んでいるよりも貧しい方がよい、高い身分よりただの人民の方がいい、ということはわかっているのじゃ。ただ、まだ、死んだ方がいいのか生きている方がいいのか、だけ知らない」
後漢・光武帝の建武年間(25~56)、
男女聚嫁既畢、勅断家事勿相関、当如我死也。
男女聚嫁すること既に畢(おわ)りて、勅して「家事に相関する勿れ、まさに我死するが如くすべし」と断ず。
息子の嫁取り・娘の嫁入りをすべて終わらせると、宣言して言った、
「家の事はもうわしに相談しないでくれ。わしはもう死んだものとして扱ってくれ」
と。
於是遂肆意、与同好北海禽慶、倶游五岳名山、竟不知所終。
是において遂に意を肆(ほしいまま)にし、同好の北海の禽慶と、ともに五岳名山に游んで、ついに終わるところを知らず。
この後に、とうとう自分のやりたいことをやることにして、同じ方向性の北海の禽慶というやつと一緒に、五岳をはじめとする霊的な山々を訪ねる旅に出て、―――さて、どこでどうなったか、その後のことは誰も知らない。
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「後漢書」逸民列伝より。「終わるところを知らず」に消えていくのはネコのようですばらしい。それにしても、足るを取りて余るを反す時、食べすぎて反す分が無いこともあったのでしょうか。気になる。
なお、晋・皇甫謐「高士伝」にほぼ同じお話が載っています(おそらくこちらがタネ本)が、そこでは「向長」ではなく「尚長」さんになっています。