叔世官吏(叔世の官吏)(「鶴林玉露」)
今日は先輩の方々にいい飯食わせてもらいました。席上、最近の経済は大丈夫かね、みたいな話が出ましたが、まだ大丈夫です。政府が↓みたいになっていないので。

まだ大丈夫なら寝るでメー。
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南宋の政論家として名高い水心先生・葉適(しょう・せき)が言うに、
・・・唐の時代に西原蛮という少数民族が反乱を起こした時、湖南で道州だけは無事であった。ところが、その後、
諸使調登符牒、乃至二百函。元結以為賊之不如。
諸使の符牒を調登すること、すなわち二百函に至る。元結、以て賊もこれに如かずと為せり。
道州に対して各官庁から次々と徴税や徴発の指示書がやってきて、二百箱に上ったという。道州知事であった元結(げん・けつ)は、「反乱軍も中央官庁には敵わない」と言った。
以上が水心先生のコトバなんですが、簡単すぎて事実関係がわかりずらいので、唐の元結自身に「賊退示官吏」(賊退き、官吏に示す)という詩があり、その「序」に、事件のあらましが書かれていますので、読んでみましょう。
癸卯歳、西原賊入道州、焚焼殺掠、幾尽而去。
癸卯の歳、西原の賊、道州に入り、焚焼殺掠、ほとんど尽くして去る。
広徳元年(763)みずのと・うの年、西原蛮といわれる少数民族が反乱を起こして、湖南の道州にも侵入し、あちこちで火を放ち人を殺して略奪し尽くし、ほとんど何も残らないようにして行った。
明年賊又攻永破邵、不犯此州辺鄙而退。豈力能制敵歟。蓋蒙其傷憐而已。
明年、賊また永を攻め邵を破るも、この州の辺鄙を犯さずして退けり。あに力のよく敵を制するならんや。けだしその傷を蒙るを憐れむのみ。
その翌年、少数民族はまた、永州を攻め、邵州を破壊したが、この道州だけは境界にも侵入せずに退却していった。力でやつらをコントロールできたはずがない。つまり、彼らがこの州が傷ついているのに同情してくれただけなのだろう。
ところが、どういうことか。
諸使何為忍苦徴斂。故作詩一篇以示官吏。
諸使、何すれぞ徴斂を苦しむを忍ぶや。故に詩一篇を作りて以て官吏に示す。
中央官庁からの使者のみなさんは、(賊が同情してくれたこの町にも)徴発や収斂をして、残虐にも人民を苦しませることが、なぜできるのか。・・・というわけで、一篇の詩を作って、使者のみなさんにお示しする。
というのが「序」ですが、この詩の中に、
使臣将王命、豈不如賊焉。
使臣王命を将(もち)うること、あに賊にも如かざらんや。
中央省庁よりお使いの官吏さまが、帝国のご命令をお持ちになったが、その内容は、反乱軍以下では、まさかありませんよね?
の句があります。これが、上の水心先生のいう「元結、以て賊に如かずと為す」の趣旨です。
「旧唐書」元結伝などによると、実際には賊が見逃してくれたのではなくて、元結の指揮の下、二回目の侵入には籠城して耐えた、というのが史実らしいのですが、元結は治安や防衛もできないくせに徴発だけはする中央省庁のやり方に憤懣を持っていたので、このようなことを言ったらしい、と考証されています。
・・・さて、それでわたくし(←肝冷斎ではありません。筆者の南宋・羅大経)が考えますに、
蓋一経兵乱、不肖之人妄相促迫、草芥其民。賊猶未足以為病、而官吏相与亡其国矣。
けだし、一たび兵乱を経るに、不肖の人みだりに相促迫し、その民を草芥にす。賊はなおいまだ以て病と為すに足らずして、官吏相ともにその国を亡ぼすなり。
つまり、ひとたび軍事的な事件があると、ひどいやつらが不正に互いに緊張を促しあって、人民たちを雑草やごみクズのようにしてしまう。反乱軍はまだしも悩みとするほどではないかも知れぬが、官吏たちこそ、協力しあって自分たちの国を亡ぼすのである。
そんなひどいことするのでしょうか。
且非特兵乱之後、暴駆虐取吾民而已。方其変之始也、不務為弭変之道、乃以幸変之心、施激変之術、張皇其事、誇大其功。
かつ、特(ただ)に兵乱の後に、吾が民を暴駆虐取するのみにあらず。まさにその変の始まるや、変を弭(ゆる)うするの道を為すに務めず、変を幸いとするの心を以て、激変の術を施し、その事を張皇して、その功を誇大にす。
それに、ただ軍事的事件の後にだけ人民たちを暴力的に追い回し、虐待・強奪するだけではないのだ。その事件が始まった時に、事件を鎮静化することに努力せず、事件を幸いとする考えを持って、事件を激化するような措置を取り、事件をわざと拡大して自分たちの功績を大きくしようとするのだ。
なんと。確かにしそう・・・かも。
借生霊之性命、為富貴之梯媒。甚者仮夷狄盗賊以邀脇其君。輾転滋蔓、日甚一日、而国随之。
生霊の性命を借りて、富貴の梯媒を為す。甚だしき者は夷狄・盗賊を仮りて以てその君として邀脇す。輾転していよいよ蔓(はびこ)り、日に一日と甚だしく、国これに随うなり。
魂あるものの命を消費して、財産や身分を獲得するためのハシゴ・仲立ちとしようとするのだ。それだけではすまない。あまりにもひどいものは、外部の蛮族や反乱軍を連れてきて、自分の主君にして仕えてしまうのだ。あちらへ転がりこちらに転がりするうちにさらに蔓延して、一日ごとにひどくなっていき、国家もそれと運命をともにする。
これが
叔世官吏。
叔世の官吏なり。
末期的な役人どもの姿である。
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宋・羅大経「鶴林玉露」乙編巻三より。数年前に読んだ時に、当時の肝冷斎は「一部の弁護士?」と書きこんでるんですが、何か思い当たる事件があったのであろうか。現代的には「官吏」よりも「一部の政治家」「一部のマスメディア」あるいは「一部の国民」でもよかったのかも?いずれにせよ、まだ末期にはなっていないと思うので、ヒツジのように安眠してても大丈夫です。誰かがなんとかするでしょう。