垢穢不可近(垢穢にして近づくべからず)(「茶余客話」)
靴下も変な臭いがしたんでしょうね。

人に勝たねば、というキモチを十代のころに失くしてしまったので、勝負事はできないんです。カモにはなれるかも。
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北宋のはじめごろ、
有待詔賈元、号為国手、数十年無継者。
待詔・賈元有り、号して「国手」と為し、数十年継ぐ者無し。
皇帝顧問官の賈元という名人がいたそうで、彼は「国一番の遣い手」と呼ばれ、その地位は数十年間継ぐ者がいなかったといわれる。
後有李憨子者、挙世無敵手。然状貌昏濁、垢穢不可近。蓋里巷庸人也。
後に李憨子(り・かんし)なる者有りて、挙世敵手無し。然るに状貌昏濁し、垢穢近づくべからず。けだし里巷の庸人なり。
その後現れたのが李憨子(むっつり顔の李先生)だ。彼は生きている間、この世に対等な勝負ができる者はいなかった。そんなに碁は強いのに、顔かたちはうすぼんやりしてさっぱりせず、垢や汚れで近づくのもイヤになるほどであった。要するに、町中の普通のおっちゃんなのだ。
普通のおっちゃんは近づくのもイヤなほどではないと思うのですが、昔の読書人はこう思っていたのでしょう。
現代(19世紀はじめ)の友人・胡旦に言わせれば、
以棋為易解、則如旦聡明尚不能。若以為難解、則愚下小人往往精絶。
棋を以て解し易しとなせば、旦の如き聡明もなお能わず。もし以て解し難しとなせば、愚下の小人も往往にして精絶なり。
「囲碁というものを「簡単なもの」と思ってやってみると、この胡旦(自分のことです)のような聡明な人間にもうまくやれん。もし囲碁は「難しいもの」と思ってみると、愚かで下等な小人どもにもたくさん精しくてとにかく強いやつがいるのだ。
だから、あんなやつに負けるはずがないと思って、毎日会所で下等なやつらと碁を囲まざるを得ないのだ」
なんだそうである。
北宋の隠者・林和靖が言うには、
平生不能者、担糞、着棋。
平生能わざるは、糞を担ぐと棋を着するなり。
これまでうまくできなかったのは、肥桶担ぎと碁打ちだけだな。
と。
鄙之極矣。
鄙の極なり。
囲碁と肥担ぎを並べるとは、田舎根性丸出しである。
しかし、彼の詩を読むと、あちこちに碁を打っていたことが出てくるので、単に弱かっただけなのであろう。
猶賢者矣。
なお賢者のごときなり。
やっぱり賢者なのかも知れません。
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清・阮癸生「茶余客話」巻十九より。わたしどもは愚下小人、肥桶担ぎはできますが、碁は打てません。20台のころ生きてる目を作った(はずな)のに「これは死んでる」と言われてから「ほうほう、確かにわしの目はとろんとして死んでおりますでのう」と思ってやる気無くしたのじゃ。
宋の林和靖は「梅妻鶴子」(ウメを妻とし、ツルを子とした)の大賢者ですから、なかなか一筋縄ではいきませんね。