各求代死(各おの代わりて死なんことを求む)(「顔氏家訓」)
でかいからやられたのであろうか。

「みんなまとめて煮込んじゃうよ!」「みんな美味しくなるんニャー」
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南朝梁の時代のことですが、
江陵王玄紹、弟孝英、子敏、兄弟三人、特相愛友。
江陵の王玄紹、弟・孝英、子敏、兄弟三人は、特に相愛友せり。
梁の最後の首都であった湖北の江陵のひと、(貴族の)王玄紹と、その弟の孝英、子敏の兄弟三人は、ものすごくお互いに兄弟愛に満ちていた。
所得甘旨新異、非共聚食、必不先甞。
得るところの甘旨新異、ともに聚食するにあらざれば、必ず先甞せず。
どこからから入手した美味いもの、初めて見る珍しいものは、三人集まって一緒に食べるのでなければ、一人も手をつけようとしないのであった。
兄弟に見つかる前に早く食べてしまわないと無くなるぞ・・・と普通は思うものなのに。みなさんもそうでしょう?
しかし、この三人は、
孜孜色貌相見如不足者。
孜々たる色貌にて相見るも、足らざる者の如し。
にこにこした顔つきでお互いに会っていても、それだけでは足らないかのようだったのである。
梁・元帝の承聖三年(554)、西魏が江陵に侵攻してきた。直前の侯景の乱に弱体化していた梁には、その侵攻を挫く手立ては無かった。
及西台陥没、玄紹以形体魁梧、為兵所囲。
西台の陥没に及びて、玄紹、形体魁梧なるを以て、兵の囲むところと為る。
(以前の都・建康に比べて)西の都・江陵の陥落の際、最後まで踏みとどまっていた王玄紹は、からだつきがでかく、梧の木のようにすっくと立っていたので、(いい恩賞の対象となると思われたのであろう)西魏の兵士らに取り囲まれた。
その時、
二弟争共抱持、各求代死、終不得解、遂并命爾。
二弟争いて共に抱持し、おのおの代りて死なんと求むるも、ついに解かるるを得ず、遂に并命せるのみ。
二人の弟はともに兄に抱き着いて、それぞれ「自分が代わりに死ぬから兄を助けてくれ」と兵士らに懇願したが、どうしても包囲を解除してもらえず、最終的には三人ともみんな死んでしまった。
この人たちは仲良しだったから、今でも人の心に残っているのだ。
兄弟不睦、則子姪不愛。子姪不愛、則群従疏薄。群従疏薄、則僮僕為讐敵矣。
兄弟睦まじからざれば、すなわち子姪愛さず。子姪愛さざれば、群従疏薄なり。群従疏薄なれば、僮僕讐敵と為る。
兄弟が仲良くないと、いとこ同士の気が合うことはない。いとこ同士の気が合わないなら、その周囲の者たち(いとこの義兄弟やらはとこやら)は付き合いをしない。周囲の者たちがつきあいをしないなら、それぞれの家の執事と下男は仇敵のようにいがみ合うようになる。
如此、則行路皆踖其面而踏其心、誰救之哉。
かくの如ければ、行路みなその面を踖(ふ)み、その心を踏むも、誰かこれを救わんや。
こうなってしまえば、道端の赤の他人たちがお前の顔を足蹴にし、おまえの心を踏みにじっても、誰も救ってくれる者はいなくなるのだ。
しかし、それなのになあ、兄弟は仲たがいすることが多いんだよなあ、お前らできるだけ気をつけてくださいよ・・・、でもヨメが、子ども同士が、下男たちが、壁に開いた穴を早く修繕しないと風と雨が穴をどんどん広げてしまうようになあ・・・と、他の条を見ていると、だんだん弱気になっていくのが、苦労人であった著者の子どもたちへの教えです。いい本ですよ。
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南北朝・顔之推「顔氏家訓」兄弟第三より。わははは、兄弟みんなでやられるなんてオロカだなあ、現代のオレたちならこんなことは・・・などと笑っていてはいけません。顔之推はこの江陵市街戦の現場にいて、三兄弟の凄絶な死を、おそらく実見しているんです。彼はここで国家の滅亡を眼前にし、西魏の都・長安まで徒歩で連行され、その後、北斉に亡命、北斉が西魏の後継国家である北周に滅ぼされて再び亡国の悲哀を味わい、北周が隋に取って代わられた後はその隋に仕えて身を卒えた。
ウクライナでえー、とか、ガザで子供たちがあー、病院があー、とか現代のこと言ってませんからね。現代の批判とかヒューマニズムとか振り回してませんからね。もうちょっと、人間とは何ぞやという一般論をしているつもりです。