質実重厚(質実にして重厚)(「青箱雑記」)
飾り気が無くて重くて分厚い・・・若いうちからそうなっています。

老いても質実重厚のままでぶー。今日も苦しい。
・・・・・・・・・・・・・・
唐・白居易の詩にいう、
無事日月長、不羈天地闊。
無事なれば日月長く、不羈なれば天地闊(ひろ)し。
何ごともないといち日ひと月はたいへん長く感じられ、
何物にもつながれていないと、天と地はたいへん広く感じられる。
此曠達者之詞也。
これ、曠達なる者の詞なり。
これは、いかにも心が広くて人生にゆとりのある人のコトバといえよう。
また、苦吟派の孟郊の詩にいう、
出門即有礙、誰謂天地寛。
門を出づれば即ち礙(さまた)ぐる有り、誰か謂う、天地寛なり、と。
門を出ればすぐに妨げるようなことが起こる。
一体だれが言うたのじゃ「天地は広い」と。邪魔ばっかりではないか。
此褊隘者之詞也。
これ褊隘なる者の詞なり。
これはいかにも心が偏って狭隘な人のコトバと感じられよう。
天地又何嘗礙郊、孟郊自礙耳。
天地また何ぞ嘗て郊を礙ぐ、孟郊自ら礙ぐるのみ。
天地がまたまたどうして孟郊の邪魔をしようとするのか。孟郊が自分で自分の邪魔をしているだけではないか。
北宋の王曙(丞相となって文康のおくりなを頂戴した)の詩にいう、
棗花至小能成実、桑葉惟柔解吐糸。
棗花は至りて小なれどもよく実を成し、桑葉はただ柔なれども解(よ)く糸を吐かしむ。
ナツメの花はたいへん小さいけれど、ちゃんと実になる。
桑の葉はたいへん柔らかいけれど、(食べたカイコに)生糸を吐かせることができる。
それにしても、
堪笑牡丹如斗大、不成一事只空枝。
笑うに堪えたり牡丹、斗の如く大なれども、一事を成さずただ空枝なる。
お笑いでござるのは、ボタンの花じゃ、まるで一斗樽のようにでかい花なのに、
何ごとも結果を遺さず、空しく枝を遺すだけなのだ。
わははははー。
此亦質実重厚之詞也。
これまた質実重厚の詞なり。
これはまた質実重厚(飾り気が無く、重くて厚みがある)なひとのコトバらしいではありませんか。
質実重厚だとあんまりおもしろくないようですね。
・・・・・・・・・・・・
宋・呉処厚「青箱雑記」巻七より。体調不良なのにどんどん重厚化してきます。いったいどうなっとるのか。