星墜木鳴(星墜ち木鳴る)(「荀子」)
彗星を見ることができなかった。みんな見れないならいいんですが、見たり写真撮ったりしている人がいる、なのにおれはダメだった、というのが悔しさ(「恨」)につながるわけです。悔しいから、今日は本当のことを言っちゃおうっと。

祈っていたら、この人たちぐらい落ちてくるかも。
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紀元前の昔の話なんですが、
星墜木鳴、国人皆恐、曰、是何也。
星墜ち木鳴り、国人みな恐れ、曰く、これ何ぞや、と。
ある日、星が墜ちた。木が不気味に鳴った。すると、各都市の自由民たちはみんなびびって、言う、「いったい何が起こるのだろう」と。
これに対しまして、
曰、無何也。是天地之変、陰陽之化、物之罕至者也。怪之可也、而畏之非也。
曰く、何も無し、と。これ天地の変、陰陽の化、物のまれに至るものなり。これを怪しむは可なり、これを畏るるは非なり。
答えます。「何も起こりませんよ。これは天地の間で陰と陽の交雑の一形態で、実に稀に起こることだ、というだけのことです。どうなっているのだろう、と不思議がるのはよいのですが、「恐ろしいことが起こるのでは」と怖がるのは間違いです。
天地の変とはどんなことだろうか。
夫日月之有食、風雨之不時、怪星之党見、是無世而不嘗有之。上明而政平、則是雖並世起無傷也。上闇而政険、則是雖無一至者無益也。
それ、日月の食有り、風雨の時ならざる、怪星の党(たまたま)に見ゆる、これ、世としてかつてこれ有らずとするは無し。上明にして政平なれば、すなわちこれ並びに世に起こるといえども傷むこと無し。上闇にして政険なれば、すなわちこれ一も至る無しといえども、益無きなり。
日食月食、暴風雨、これまで見られなかった星の出現、こういったことは、無かった時代があるわけではない。為政者(選挙権を持つ主権者のことですよ)が賢明で政治が平穏であれば、これらのことが同時に世の中に起こったとしても、困ることは何もない。だが、為政者が暗愚で政治が弱い者に厳しければ、これらが一つも起こらないでいたとしても、なんのプラスにもならない。
つまり、隕石や森鳴りは大丈夫ですよ。政治が善ければ害が無い。ところが、
物之已至者、人祅則可畏也。
物のはなはだ至れるは、人祅にして、すなわち畏るべきなり。
何よりも注意しなければならないのは、人祅(ひとのあやまち)である。これは恐ろしいものなのだ。
楛耕傷稼、枯耘傷歳、政険失民、田薉稼悪、糴貴民飢、道路有死人、夫是之謂人祅。
楛耕(ここう)稼を傷め、枯耘歳を傷め、政険にして民を失い、田は薉(あ)れ稼悪しく、糴貴にして民飢え、道路に死人有る、それこれをこれ、人祅と謂う。
いい加減な耕やし方で収穫が思い通りでない、雑草取りができてなくて実りがよくない、政治が険悪で人民の心は離れていて、耕地は荒れ収穫量は少なく、コメ価は高く人民は飢えはじめ、街道沿いには餓死者が転がっている―――これを人祅(ひとのあやまち)というのである。
政令不明、挙措不時、本事不理、勉力不時、則牛馬相生、六畜作祅、夫是之謂人祅。
政令明らかならず、挙措時ならず、本事は理(おさ)まらず、勉力時にせざれば、すなわち牛馬相生じ、六畜祅を作す。それ、これをこれ、人祅と謂う。
政策や命令の方向性が明らかでなく、人民の動かし方が季節に合わず、本来の業務(第一次産業)は混乱し、労力を動員する時期が悪いならば、ウシがウマを、ウマがウシを生むようなドウブツのまちがいが起こる―――これを人祅(ひとのあやまち)というのである。
礼義不修、内外無別、男女淫乱、父子相疑、上下乖離、寇讐並至、夫是之謂人祅。
礼義修めず、内外別無く、男女淫乱して、父子相疑い、上下乖離し、寇讐並び至る、それ、これをこれ、人祅と謂う。
礼儀も道義も行われず、家庭の内外に区別が無く、男女はやりまくり、親と子は疑いあい、上司と部下は背き離れ、国外からは複数の敵が攻め寄せる―――これを人祅(ひとのあやまち)というのである。
一つあってもたいへんなことだが、
三者錯、無安国。
三者錯われば安国無し。
三つが同時に起こって、滅びに至らなかった国はないのである。
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「荀子」天論篇より。ええー! 現在、三つで済まないぐらい起こっていますよね。つまり、滅亡する―――!と思ったけど、ほんとのこと言われても困るので、流れ星に祈ってゆめを実現させよう。実質賃金は下がってないような気がしますように。世界中で日本は尊敬されているはずなので本当になりますように。労働生産性もほんとは高いんではないかと思いますように。