割裂棄毀(割裂し棄毀す)(「王陽明集」)
なんで行かなくなったんですかね。体力切れか。永井荷風翁はもっと年寄りになってもカツレツ食べていたそうですが、わたしはもうそんなの食べられません。牛丼はいけるかも。

すいか男トムソンだ。割れたり裂けたりすると中身が出てきて大変なことになるぞ。
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明の嘉靖四年(1525)正月、浙江・紹興の稽山書院に尊経閣という講堂が出来ました。
そこで、「経を尊ぶ」ということについて、地元出身で軍事に大活躍の大先生におことばを賜った。
大先生は「経」とは何か、それは各人の中にある「良知」を致す、行けるところまでそれを行かせる、という時代を超えた「常なる道」のことである―――という大先生特有の理論をお話しになられました。
これは人間のものすごい財産である。古代の聖人たちが編纂した「六経」(詩・書・易・礼・春秋+古代に湮滅したという「楽」についての経典)は、この財産をいくつかの分野に分類した「記籍」(目録)であり、「六経」そのものはそんなに尊ぶ必要はないんだが、目録が無いと困るやつもいるので聖人が作ってくれたんである―――と、これも、当時ではトンデモなことを話しているうちに、やはり、というべきでしょう、怒ってきました。
嗚呼。六経之学、其不明於世、非一朝一夕之故矣。
嗚呼。六経の学、その世に明かならざる、一朝一夕の故に非ざるなり。
ああ! 六つの経典に学ぶ、ということは本来の「経」(常なる道)の目録を確認することなのに、その意義が世の中のやつらに忘れられてしまったのは、夕べとか昨日とかといった最近のことではない。長い間そうなってきたのである。
長い間、どんなふうになってきたか。
尚功利、崇邪説、是謂乱経。
功利を尚び、邪説を崇ぶ、これ「経を乱る」という。
功績や利益が重要だと考え、また、邪悪な仏教や道教を崇拝する―――こんなやつは、「常なる道を混乱させる」というのじゃ。
怪しからん。だが、もっと怪しからんのは、
習訓詁、伝記誦、没溺於浅聞小見、以塗天下之耳目、是謂侮経。
訓詁に習い、記誦を伝え、浅聞と小見に没溺して、以て天下の耳目を塗る、これ「経を侮る」という。
経典の言葉一つ一つの意味を研究し、読み方を伝承するなど、浅はかで小さな見聞知識にはまりこんで、その議論で天下の人々の耳や目を塗りこめてしまう―――こんなやつは、「常なる道をばかにしている」というのじゃ!
しかし、もっと怪しからんやつがいるのじゃ。
侈淫辞、競詭弁、飾奸心盗行、逐世壟断、而猶自以為通経、是謂賊経。
淫辞に侈(おご)り、詭弁を競い、奸心盗行を飾り、逐世して壟断し、しかもなお自ら以て経に通ずと為す、これ「経を賊す」という。
かっこいい言葉を使うことをほこり、危うい論理で人を論破し、嫉妬や権力欲に満ちたきたない心や盗人のような行動を粉飾して、世間のはやりを追いかけ、大きな顔をして世論を仕切り、それなのに、まだ自分は「経のことをよく知っているぞ」と自認している―――こんなやつは、「常なる道を害する強盗」というのじゃ!
書院で学ぶマジメな学生たちは、背筋に汗が流れたという。
若是者是并其所謂記籍者、而割裂棄毀之矣。
かくのごときの者は、これ、そのいわゆる「記籍」なるものと并(あわ)せて、これを割裂(かつれつ)し、棄毀(きき)すなり。
こいつらは、まったく、さっきいった「財産目録」つまり聖人が編纂してくれた現存の経典といっしょに、「常なる道」を、すっぱりと切割り、ばりばりと破り裂き、ぐしゃぐしゃにしてぽいと捨てる―――ということをしているのだ!
カツレツしてキキしているのだ!
寧復知所以為尊経也乎。
なんぞまた、経を尊ぶを為す所以を知らんや。
こんなやつらが、「経を尊ぶ」とはどういうことで、どうすればいいか、知っているはずがなかろう。
こんなやつが、今、この「尊経閣」にいるわけないよね?
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明・王陽明「稽山書院尊経閣記」(稽山書院の尊経閣設立の記念の書)(「王文成公全集」巻七所収)より。「大先生」はもちろん、王陽明先生です。
うーん。うーん。うーん。
反省してみましたが、わたしは別に経を乱したり侮ったり山賊みたいに害したり、はしてません。読まなかったり、ぼいと放り出してほっといたり、どこかに埋もれてしまってどこにあるかわからなかったり、何の本だかわからないから踏みつけたり、そのときびりりと破けて「いけね」と思ったり、ということをすることはあっても、明の時代に書院にいて、訓詁を学び読み方を伝授し、かっこいい言葉遣いをしたり、つまり当時マジメに勉強している人のような勉強はしていないので、大丈夫です。みなさんとともに。