有法可伝(伝うべきの法有りや)(「鶴林玉露」)
ぎりぎりの言葉にできないような奥義があるらしいんです。

プロの魚食いの姿を見せてやるにゃ。くじらは無理にゃ。ひとでは・・・
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唐の玄宗皇帝、馬の画の名人・韓幹(昨日の詩に出てきました弟子の方です)に名馬を画かせようと、
令観御府所蔵画馬。
御府の所蔵する画馬を観せしむ。
宮中に所蔵されている過去の名人たちの馬の絵を見させた。
すると、韓幹は言った、
不必観也。陛下厩馬萬匹、皆臣之師。
必ずしも観ざるなり。陛下の厩、馬万匹、みな臣の師なり。
あんまり見なくても大丈夫です。陛下の厩には一万頭ぐらい馬がいると思うんですが、それらがすべてわしの師匠みたいなもんですから。
現物を見れば大丈夫、というわけらしい。
また、北宋の大絵師・李伯時は特に馬を画くに長けるといわれていたので、太僕卿の曹輔は、太僕が預っている宮中の馬をすべて見せた。
李伯時毎過之、必終日縦観、至不暇与客語。
李伯時これを過ぎることに、必ず終日ほしいままに観、客と語るに暇あらざるに至る。
李伯時はそこに行くと、いつも必ず一日中馬を見続てしまい、人と会話するゆとりもなくなってしまった。
絵を描くには、細部の観察よりも、生きているそのものの姿を見ることが大事らしいんです。
大概画馬者、必先有全馬在胸中。若能積精儲神、賞其神俊、久久則胸中有全馬矣。信意落筆、自然超妙、所謂用意不分乃凝于神者也。
大概、馬を画く者、必ずまず全馬の胸中に在る有り。よく精を積み神を儲け、その神俊を賞するがごとければ、久久にしてすなわち胸中に全馬有るなり。意に信(まか)せて落筆せば、自然に超妙、いわゆる意を用うるに分ぜざればすなわち神に凝る、なるものなり。
大体、上手に馬を描く人は、まず馬の全体像を心の中に描き出すものだという。そのためには、精神を集中させて馬の神秘的で俊れたところを鑑賞するようにして、長い時間が経つと、ようやく心の中に馬の全体像が描きだされるのだ。そうなれば、思いのままに筆を落とせばおのずと超絶的に巧妙に描ける。よくいうところの「心を用いるのに分別もしないでいれば、精神に凝集されてくる」というやつである。
そんなことよく言うんですか。分別を乗り越えて無我の境地になると、すごい精神集中できる、というようなことでしょうか。
馬だけではないんです。
巣無疑工画草虫、年邁愈精。余嘗問其有所伝乎。
巣無疑は草虫を画くに工みにして、年邁(た)ければいよいよ精なり。余、かつてその伝うるところ有るかを問う。
同時代人(南宋)の巣無疑は草原にいる虫を画くのが巧妙で、歳をとればとるほどうまくなった。わしは、ある時彼に会って、「何か教えられる秘訣はあるのかのう」と訊いてみたことがある。
すると、彼は笑って言った、
是豈有法可伝哉。
これ、あに伝うべきの法有らんや。
これに、教えられるような秘訣があるわけはございませぬよ。
某自少時、取草虫籠而視之、窮昼夜不厭。
某少時より、草虫を取りて籠してこれを視るに、昼夜を窮むれども厭きず。
わしは小さいころから、草原の虫を取ってきて虫籠に入れて観察し、昼も夜も見続けても厭きませなんだ。
それぐらい虫が好きじゃった。しかし、
恐其神之不完也、復就草地之間観之、于是始得其天。方其落筆之際、不知我之為草虫耶、草虫之為我也。
その神の完ならざるを恐るるや、また草地の間に就きてこれを観、ここにおいて始めてその天を得たり。まさにその落筆の際、知らず、我の草虫を為すや、草虫の我を為すやを。
その精神が完全にわからないのではないかと不安になって、また草原に行って虫たちを放って観察した。そこでやっとあるがままの姿を知ることができたんじゃ。その後は、筆を落として虫を画くとき、わしが虫を画いているのか、虫どもがわしに画かせているのか、わからなくなってしまった。
此与造化生物之機鍼蓋無以異、豈有可伝之法哉。
これ、造化の物を生ずるの機鍼(きしん)と以て異なるなく、あに伝うべきの法有らんや。
これはもう、大自然がものを生み出す秘密の針の動きと異ならない。(大自然がわれらにコトバで伝える秘密が無いように、)伝えることのできる秘訣など、あるはずがないではないか。
と。
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宋・羅大経「鶴林玉露」丙篇巻六より。自然のままのものを観察しなければ、その真の姿は得られないのである。