遭俗眼白(俗眼に白(にら)まるに遭う)(杜甫「丹青引」)
最近、久しぶりで「唐詩選」を読んでいます。という言い方は正確ではなくて、オモシロいので、東洋文庫の伝・服部南郭述「唐詩選国字解」を読んでおります。もっといえば三冊セットで安く店頭にあったのを買ってしまったので、読まざるを得なくなったんです。

これぐらいカッコよく描いて欲しいものでヒン。
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「国字解」は荻生徂徠の弟子で有名な服部南郭の講義を弟子がメモったものを出版した、という体裁なんですが、南郭の学説のようなところもあるのですが、弟子と称する者が補足しているところも多いのではないか、さらにこの弟子と称している林玄圭という人が南郭の弟子名簿で確認できない、といういろいろ問題がある本らしいのですが、考えてみると「唐詩選」自体が明の大文人・李攀龍の選、ということ自体が真っ赤なウソなので、ウソにウソを重ねているだけだから、厳しいこと言いなさんな。
江戸口語を読んでいると、不思議なのどかさを感じます。どうでもいいやというキモチになってくるので、やはり老年に読む「唐詩選」は国字解に限りますわいな。
若いころは語釈に気を取られて読むと疲れたこの詩も、老年になるとなかなかおもしろい。(「国字解」は逐語訳はしてくれてないので、以下、現代語訳は肝冷斎による)―――
曹覇どのは「将軍」とあだ名されているが、魏武侯・曹操のご子孫、
現代(唐の時代)では庶民の戸籍に入っておられるけれどもともとは貴族の一門であられる。
英雄となって各地の割拠していた(ご先祖の)時代は終わったけれど、
曹操・曹丕・曹植らご先祖代々の芸術精神は継いでおられるじゃ。
はじめは王羲之の師匠といわれる衛夫人の字を学んでおられたそうだが、
がんばっても王羲之よりは上手くなるまいと思って諦めた。
(それで転向した)絵画の方はおもしろくて老齢になるまで止められず、
その楽しみに比すれば財産も地位も浮雲のようにどうでもいいものだという。
かつて開元年間には何度も玄宗皇帝にお目見えし、
宮中にもお呼びのかかる栄誉を得た。
唐初の英傑たちを描いた凌煙閣の肖像画が、百年を経て色褪せてきていたので、
曹覇将軍に修復させたらまるで生き返ったようになり、
良き宰相たちの頭上には進賢冠(賢者を推薦する人がかぶる冠)を、
猛き将軍たちの腰には巨大な羽の矢を描き、
段志玄や尉遅敬徳の髪の毛は動き出し、
颯爽としたかっこいい姿で、今いくさばから帰ってきたようじゃ。
(段志玄や尉遅敬徳のことはかつて肝冷斎が「唐書」や「貞観政要」を引いて・・・ああっと、もうここに移ってきたときに散逸したんでした! ああ、惜しいなあ)
先帝さま(玄宗皇帝のことです)は西域から献上されてきた玉花号という馬を、
山のような絵描きに書かせたが誰の絵もその精気を写しきれなかったのを思い出し、
この日、馬を牽いてこさせて赤い塀のところに立たせたが、
庭のずっと向こうの門のところだというのに、(馬の精気によって)ここまで風が吹いてくるのだった。
帝、みことのりして曰く、曹将軍、白い絹を広げよ、と。
構想に苦心しながらやがて描き出したところ、
あっという間に宮廷の中にまことの龍が降りてきたか(というようなかっこいい馬の絵を描いた)。
これまでの普通の馬など洗い流されてしまったように、
玉花号は描かれて、帝の長椅子の上にいる。
長椅子の上と、庭先と、二頭の玉花号がにらみ合う。
帝はにこやかに曹覇どのに黄金を賜ったが、
馬飼いたちは玉花号の魂が半ばになってしまったかと心配した(という)。
韓幹という弟子がいて、早くから大体の奥義を学び取り、
やはり馬を描くのが得意で馬の個性を見事に写してはいたが、
彼の絵は外面を見事に描くが内部の骨柄を捉えきれていなかったので、
古代馬のような名馬を描いても、その精気を描ききれなかった。
しかし、
将軍善画蓋有神、 将軍の善画には蓋し神有り、
必逢佳士亦写真。 必ず佳士に逢はばまた真を写さん。
(以下、南郭先生述)
将軍の画は上手の段ではない。各別神妙を窮めておらるるゆへに、
必ずすぐれた佳士に逢うて、手前の絵像を書いてくれやれなどと頼まれたらば、其の人を見るやうに画かるるであらう。
さて、いたはしいことには、昔はかやうに人に用ひられたが、
即今漂泊干戈際、 即今 漂泊す、干戈の際、
屡貌尋常行路人。 しばしば貌(ばく)す、尋常行路の人を。
今は干戈の際(あいだ)に落ちぶれて居らるるに付けて、
此の邦(日本のことです)にても、土佐の何某が、天文永禄(戦国時代)の乱に逢うて、大津絵を画いて渡世したやうに、しばしば道通りの人に頼まれても、画いてやらねばならぬやうになられたは、惜しいことである。
途窮反遭俗眼白、 途窮まりて反って俗眼に白(にら)まるに遭い、
世上未有如公貧。 世上いまだ公の貧しきが如きは有らず。
度々(たびたび)不仕合(ふしあわせ)が続いて、差支えが出来て、何も知らぬ者にまで睨まるるやうになった。
世間に貧乏な者も多いが、そこ元のやうな、文采風流で貧乏な人はいない。
但看古来盛名下、 但(ただ)見よ、古来盛名の下(もと)、
終日坎壈纏其身。 終日坎壈(かんらん)のその身に纏わることを。
この二句は覇が不仕合せなを慰むるのである。
但見よ。昔から盛んな聞こへある人には、
必ず差支へることが付いて廻るものぢゃによって、そう思ひあきらめて居られい。
坎壈は左前になること。纏うとは、不断常住、身にからまって居る(との)心である。
おしまい。
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「唐詩選」巻之二・杜甫「丹青引、贈曹将軍覇」(赤と青――画のうた。「将軍」曹覇どのに贈る)。土佐派や大津絵が出て来て、いいですね。最後の四行は、そのまま肝冷斎やみなさんへの「はなむけの歌」とも読めるほどです。
―――昔から盛んな聞こへある人には必ず差支へることが付いて廻るものぢゃによって、そう思ひあきらめて居られい!
肝冷斎にもみなさんにも、「盛んなる聞こえ(評判)」があるといいね!

あきらめることも大切ですぞ。諦める、は、明らめる、じゃ。