10月11日 晩年にそんなに変わるはずがない

病狂喪心(狂を病み心を喪う)(「伝習録」)

観タマも無くなって平穏な日々が戻ってまいりました。秋の夜長だし、超ベストセラーを読んでみましょう。

わしの経験では、晩年になると逆切れとかしやすくなるぞ。

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明の大儒・王陽明さまは、心学を唱えて朱子学をボコボコに批判したのですが、朱子学の人たちからの総攻撃を受け、これではいかん、と「朱子晩年定論」という本を作りました。朱子も実は晩年になって陽明学と同じ考えに至っており、中年までの学説を反省していた、と称して、「朱子文集」の中から自分に都合のよさそうなところを切り出して編纂し、これを「朱子晩年定論」(朱子の晩年になってからの最終的な哲学論)と称して世に出したのです。

かなりの反響があって、この本で朱子学から離れることができた、洗脳が解けた、という人も多くいたらしいのですが、明代の最も良質な朱子学者というべき羅整庵先生から手紙が来て、

・・・「朱子晩年定論」読みました。たいへん勉強になりました。ただ、あなたが晩年の書だとおっしゃっている朱子の文書について書かれた時期を精査してみると、決して晩年のものではないものが多く見つかりました・・・

といって、きちんとした考証の上に、陽明が編纂したのは、朱子の晩年の考えではない、ということを実証してきたのです。

これに対して王陽明は、「羅先生のご指摘は尤もだが、全てが間違いではなく、晩年の文書の方が多いのですから、おおむねは正しいはずです」という反論とともに、なぜこんなことをしたのか、言い訳をしはじめた。

韓氏云、仏老之害、甚於楊墨。韓愈之賢不及孟子。孟子不能救之未壊之先、而韓愈乃欲全之於已壊之後。其亦不量其力、且見其身之危、莫之救以死也。

これは「韓昌黎文集」巻十八に載っている「孟尚書に与う」という手紙だそうです。韓愈は唐代に仏教批判を行って、仏教が好きな皇帝をどえらい怒らせて、南方に流された。ほんとに危険だったのです。

これを引用した上で、陽明先生は、

嗚呼。(ああ)

と嘆きの声を挙げました。

若某者、其尤不量其力。果見其身之危、莫之救以死也矣。

「也矣」(なるかな)をエクスクラメーションマークで表してみました。うまいね。うっしっし。

夫衆方嘻嘻之中、而独出涕嗟若。挙世恬然以趨、而独疾首蹙額以為憂。

此其非病狂喪心、殆必誠有大苦者隠於其中。而非天下之至仁、其孰能察之。

(あなた程度では、無理かな?)

と、言ってます。

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明・王陽明「伝習録」中巻「答羅整庵少宰書」より。逆切れしてみたり居丈高になったり、ちょっと変な人の手紙の感じしますよね。陽明学が、王陽明の軍事的盛名とともに同時代に大ブームを巻き起こし、熱心な追随者が多数現れる一方で、普通の知識人たちは「なんだこれ」と言って腕組みして悩んでしまったのもムベなる感じでは。変革期にはすごい力を発揮するんですが・・・。
さすがにわたしがもし家長だったら、子弟が「陽明学を学ぶう!」と言い出したら「怪しからん!」と𠮟りつけそうな気がします。家長でなかったら責任無いので知りません。「勉強してえらいでちゅねー」とおだてておくぐらいかも。

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