1月9日 リーダーシップ論としてはちょっと冗長か

非真能也(真に能なるにあらざるなり)(「清通鑑」)

もしかしたら役に立つ事言ってるかも・・・と思うのですが、みなさんはどう思いますかな。

よい子・できる子・無能の子、みたいな。

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清・雍正十三年(1735)八月、雍正帝がホントに突然死しました。死因についてはとやかくの議論もあるのですが、特に大清帝国の屋台骨に問題は無く、九月には乾隆帝が即位、群臣から広く国政についての意見を求めた。

御史・曹一士は、これに応じて「分別賢能」(賢と能を分別せよ)を奏した。

自大吏以至小吏、皆有賢員、有能員。賢能兼者、上也。賢而不足于能者、次也。能有余而賢不足者、又其次也。

「能でも賢でも無い人」もいるはずですが、スルーされています。自覚のある人は是非、「おれらを無視するな」と怒ってやってください。

ところで、賢者=能者ではないのでしょうか。

違うのである。

何謂賢。務持大体、与民休息者、是也。何謂能。趨事赴功、綜核名実者、是也。

「綜核」は物事をまとめ、事実を弁えること。

むむむ。賢者の方はワンチャンスながら出来そうな気もします。だが有能な人はなかなか難しいぞ。

しかしながら一般には、

天下能吏多而賢吏少、則吏治必有不得其平者、不可不亟加甄別也。

広域の行政に責任を持つ総督(武官)・巡撫(文官)が所管の太守や知事たちを評価する時、こんなコトバを聞きます。

年力富強、為人明敏、為事勤慎、力行保甲、銭糧無欠、開墾多方。

果如其言、洵所謂能吏也。

そして、

所謂貪吏酷吏者、無一不出于能吏之中。

みんな有能出身なんです。

若夫吏之賢者則不然、惻憺愛人、悃愊無華、方于事上不為詭随、吏人同声謂之不煩而已。此数者、皆督撫所視為無能者也。然賢者則必出于其中。

臣恐督撫所謂能者非真能也。

以趨走便利而謂之能、老成者為遅鈍矣。以応対捷給而謂之能、則朴訥者為迂疏矣。以逞才喜事而謂之能、則鎮静者為怠緩矣。

そんなことをしていませんか。

・・・まったくです。わたしも、のそのそしているので、よく怠慢とか無能とか判断されていたように思います。賢者かも知れなかったのに。

臣愚以為今之督撫、明作有功之意多、而惇大成裕之道少。損下益上之事多、而損上益下之義少。

此誠当世治体所関、治体一偏、必滋流弊、転移之機、実在今日。

「まったくである」

と乾隆帝はご賛同なされ、ただちに全国の総督と巡撫に、「実心愛民」のみことのりを降されたのであった。

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「清通鑑」巻九二・雍正十三年より。会社のえらいさんがここのところ分かってくれると、のそのそしてても褒められるかも知れないのですが。

曹一士、字・諤廷、江蘇・上海のひと、雍正七年、五十歳を過ぎて進士となる。雍正十三年(1735)には雲南道監察御史で辺境にいたが、乾隆帝即位直後、地方官が交代で上京してお目通りした際、意見書を奉った。この意見が帝の意に即したため、翌乾隆元年(1736)、首都に呼び出されて封駁(皇帝の意志に対して反対を含めた意見書を作成する)官に就いたが、同年、病を得て卒す、年五十九。

言官未一歳、而所建白皆有益于民生世道、朝野伝誦。聞其卒、皆重惜之。

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