不得不鋤(鋤せざるを得ず)(「三国志」)
今年の予想でも占ってみようかなー。えい! なんと、こんな結果が!・・・と結果を発表しようと思ったのですが―――。

こんな外見上問題無さそうなタイプでも、邪魔になると・・・。
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三国の時代、四川の蜀漢に属した張裕は、占術に長け、劉備が漢中を争わんとする(建安十八年(213)ころ)のを諫して曰く、
軍必不利。
軍必ず利せず。
「このいくさは、うまく行きませぬぞ」
と。
しかし、劉備はその言を用いることがなかったので、張裕はひそかに人に言う、
歳在庚子、劉氏祚尽。主公得益州、九年之後、寅卯之間当失之。
歳、庚子に在りて、劉氏の祚尽きん。主公は益州を得るも、九年の後、寅卯の間にこれを失うべし。
―――木星が庚子に当たる年になれば、劉氏の国は滅びるだろう。ご主人さま(劉備)は益州を支配することになるであろうが、今から九年後の寅か卯の年あたりにその地位を失うことになる・・・と思うよ。
劉備は、
夙銜其不遜、加憤其漏言。
夙(はや)くその不遜を銜(ふく)み、加えてその漏言を憤る。
以前から、生意気だった(蜀に入ってすぐに「ひげなしさん」と揶揄された)ことを腹に据えかねていたが、ここに至って、秘密の予想を人に洩らしたことで激怒した。
時諸葛亮救之。
時に諸葛亮これを救わんとす。
この時、諸葛亮が(ただでさえ人材がいないのに、使えるやつを罰するのは如何なものかと)彼をとりなそうとした。
ここで劉備が言ったのが名言とされております。
芳蘭当門、不得不鋤。
芳蘭も門に当たらば、鋤(じょ)せざるを得ず。
「香りのよい蘭(才能ある人物)も、出入りする門の真ん前に生えて邪魔になるなら、鋤で除かざるを得ないじゃろうが」
と反論を封じて、
棄市。
棄市せり。
市場で公開死刑、死体さらしの刑罰に処した。
その後、後漢の建安二十年(215)、劉備は漢中を制圧できないままに反転して成都の劉璋政権を攻撃し、益州を奪った。建安二十五年(220年庚子)、魏公曹丕が後漢・献帝の譲りを受けて魏を建国、劉氏の漢は滅亡した。
翌221年、劉備は蜀漢の皇帝として即位、その章武三年(223・癸卯年)、張裕の予言通りの「寅・卯」の間に、卒したのである。おくり名して「昭烈帝」という。
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「三国志」蜀志・周群伝より。張裕のような占いの名手でも「門に当た」って邪魔になるなら処刑されます。いわんや張裕のような能力のない人だったり、あるいはもし占いが当たってしまったりしたらどうなりますことやら。危ういので、占い結果の発表は中止。禍いは口より出でますでのう。