不聞此語(この語を聞かず)(「松窗夢語」)
予想は当たる!・・・こともある。当たらないこともあるので心配しなくていいと思います。

にわとりがタマゴになるわけではないでこけ。
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明の時代のことですが、
吾祖当年葬時、宗人有素解風水者、極言不可。
吾が祖、当年の葬時、宗人のもとより風水を解する者、極言して不可なりとす。
かつてうちの祖父さんを葬った時、一族の中の風水術に詳しい人たちは、「この墓地の場所は絶対に不運を呼び込む」と言って大反対であった。
そう言われておやじも困っていたみたいだが、
余在傍曰、子孫福沢、各有定命。卜地求安親体、豈敢於枯骨求蔭庇哉。
余、傍らに在りて曰く、「子孫の福沢はおのおの定命有り。地を卜するは親体を安んずるを求む、あに敢えて枯骨に蔭庇(おんぴ)を求むることあらんや」と。
わしは、その時、まだ子どもだったんですが、おやじの側にいて、こう言ったものである。
「子孫が幸福になるかどうかは、それぞれの運命が別にあります。墓地の場所を考えるのは、親御をゆっくり休ませてやる場所として相応しいかどうかを確認しているのであって、おじいらの古い白骨のおかげでいい目を見よう、などと望んではなりませんよ」
子どものコトバであったが、
「そうだな」
先大人以為然。乃開壙下棺。
先大人以て然りと為し、すなわち壙を開きて棺を下ろす。
今は死んだおやじどのは、わしのコトバに賛成して、墓穴を掘らせ、おじいの棺を下ろしたのであった。
そこが今我が家のご先祖代々の御墓がある積慶山である。
その後、
自余仕官、人稍称善。
余の仕官せるより、人やや善を称す。
嘉靖十四年(1535)、わしが進士になっ(て最初は工部に奉職し)たこともあって、「このお墓はちょっといいところかも知れませんね」と言ってくれる人が増えだした。
さらに萬暦元年(1573)、強力な権力を保有した宰相・張居正の引きで吏部尚書(人事長官)となって、
既通顕、乃益称勝。
既に通顕するに、すなわち益々勝を称す。
とうとう上層の方々ともお付き合いするようになると、そのころから、ますます「この墓地はいいところだ」と言い出した。
ふむふむ。そうですか。それはよかったですね。
近年行術者、咸尋訪登覧、謂、此祖墳、宜出鉅公。
近年の行術者、みな尋訪し登覧して、謂う、「この祖墳は、よろしく鉅公を出だすべきなり」と。
最近は、風水の術を使う者は、たいてい来訪してお墓を見学して、ついでに「このような祖先の御墓をお持ちですとは・・・、政府の重要な官僚を子孫から出す墓相ですぞ」と言ってくれる。
余笑曰、五十年前不聞此語。
余笑いて曰く、五十年前この語を聞かざりき、と。
わしは笑って言うのである、「五十年前にはそんな予想をしてくれる人はいませんでした」と。
ある人から聞いたコトバであるが、
有此六尺之躯、必有三尺之土。百年後皆土壌爾、奚択焉。
この六尺の躯有れば、必ず三尺の土有らん。百年の後はみな土壌なるのみ、奚(なん)ぞ択ばんや。
正確な計算をしてもしようがないのですが、明代の一尺≒31センチだそうです。
―――人間には180センチ程度の身体があるから、死んだときにどうしても1メートル四方の墓穴は必要なのさ。しかし、百年も経ったらみんな土くれになるのだから、どこがいいとか悪いとか、選んでいるだけムダじゃないか。
これが正しいのであろう。けだしこの言葉、我が子孫はよく味わうべきである。
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明・張瀚「松窗夢語」巻五より。張瀚、字・子文、浙江のひと。だいたい上にあるような経歴を経た後、萬暦五年(1577)、大宰相・張居正に忖度しなかったことを以て排斥され、辞職。十八年後、萬暦二十三年(1595)、家に卒した。その間に書いたのがこの「松窗夢語」のほか、文集や詩集や刑法や人事に関する先例集なども作っています。
まだ生き埋めの人はたくさんいるらしいので、落ち着いてきた、といえるような状況ではないようです。