廿卅卌(廿、卅、卌)(「茶余客話」)
学校で習ってないと思います。勉強になるなあ。役に立つブログだなあ。

なにかの書き間違いかと思うのでは。
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「史記」を閲すると、どうにも腑に落ちないことがある。
秦の始皇帝があちこちに巡遊して、行った先で石碑に刻んだ記念の言葉が記録されている(いずれも「秦始皇本紀第六」)のだが、それを見ると、
1 泰山辞曰、皇帝臨位、作制明位、臣下修飭、二十有六年、初并天下。
「泰山の辞」に曰く、皇帝位に臨み、制を作り位を明らめ、臣下修飭して、二十有六年、初めて天下を并せたり。
「泰山に登った時のことば」にいう、「皇帝は位について、制度を作り位階を明らかにし、臣下はまじめに勤めて、二十と六年(前221)にして、天下を統一したのである」と。
2 琅邪台頌曰、維二十六年、皇帝作始、端平法度、万物之紀。
「琅邪台の頌」に曰く、これ二十六年、皇帝始めて作(おこ)り、法度を端平にして万物の紀とす。
「琅邪台のおほめことば」にいう、「この二十六年に、皇帝ははじめて(天下に)権力を振い、法規を正しく公平にして、あらゆるものの規則にした」と。
3 之罘頌曰、維二十九年、時在中春。陽和方起、皇帝東游、巡登之罘、臨照于海。
「之罘(しふ)の頌」に曰く、これ二十九年、時は中春に在り。陽和まさに起こり、皇帝東游して、之罘(しふ)に巡登し、海に臨照す。
「之罘の山のおほめことば」にいう、「この二十九年(前218)、季節は春の半ばに当たり、陽気な和やかさがちょうど起こっているとき、皇帝は東の方にお見えになって、之罘の山にめぐり登って、海を臨み見られたぞ」と。
4 東観頌曰、維二十九年、皇帝春游、覧省遠方、逮于海隅、遂登之罘、照臨朝陽。
「東観の頌」に曰く、これ二十九年、皇帝春游して、遠方を覧省し、海隅に逮(およ)び、遂に之罘に登りて、朝陽に照臨す。
「(之罘の)東側の建物のおほめのことば」にいう、「この二十九年、皇帝は東の方に春の行幸に出られ、遠いところをご覧になって、海の隅っこまでやってきて、とうとう之罘の山に登って、朝日をご覧になったぞ」と。
5 会稽頌曰、皇帝休烈、平一宇内、徳恵修長、三十有七年、親巡天下、周覧遠方。
「会稽の頌」に曰く、皇帝は休烈にして、宇内を平一し、徳恵長きを修め、三十有七年、親(みずか)ら天下を巡りて、遠方を周覧す。
「会稽のおほめのことば」にいう、「皇帝はたいへんな強いお方、宇宙を一つに平定なされ、徳と恵は長い期間にわたって行われ、三十と七年(前210)、おん自ら天下をおめぐりたもうて、遠き方まであまねくごらんになられたぞ」と。
・・・何が腑に落ちないかおわかりいただけましたでしょうか。
秦始皇凡刻石頌徳之辞、皆四字句。此史記所載、毎称年者、輒五字句。
秦始皇、およそ刻石頌徳の辞、みな四字句なり。この「史記」の載するところ、つねに年を称するには、すなわち五字句とす。
秦の始皇帝は、石におほめの言葉を刻む時には、だいたい四文字で一区切りにしている。ところが、この「史記」の記載を信ずれば、「年」をいうときだけは、五文字一区切りにしてあるのである。
「有」や「維」の不要な修飾句を除くと四字句になるのに、なぜわざわざ五字句にしたのだろうか。
ずっと不思議でしようがなかったのですが、「泰山のことば」の石碑の一部らしきものが発掘されていることを知ったので、人づてにその拓本を手に入れることができた。
それを見ると、
乃書為廿有六年。
すなわち書して「廿有六年」と為す。
なんと、「二十有六年」のところは「廿有六年」と書かれていたんじゃ!
これではたと気づいたのである。
二十為廿、三十為卅、四十為卌、皆説文本字。
二十は廿と為し、三十は卅と為し、四十は卌と為すは、みな「説文」の本字なり。
二十を「廿」と書き、三十を「卅」と書き、四十を「卌」と書く。これらはすべて後漢の「説文解字」にも載せられている、古くからの正しい文字である。
チャイナ最古の字書とされる「説文解字」を引きますと、確かに、
廿音入、二十併也。卅音先合反、三十之省便、古文也。卌音先立反、数名、今直以為四十。
「廿」は音は「入」、二十の併なり。「卅」は音は先と合の反、三十の省便にして、古文なり。「卌」は音は先と立の反、数の名、今ただに以て四十と為す。
〇「廿」 音は「にゅう」。二十(にじゅう)を合わせて一字にしたのである。
〇「卅」 音は「せん」の語頭子音sと「ごう」の母音ouのセット、すなわち「そう」。三十の略語で、古い時代の文字である。
〇「卌」 音は「せん」の語頭子音sと「りゅう」の母音yuのセット、すなわち「しゅう」。数を表す言葉、現代(←後漢のころです)では、四十ぴったりを表す、ということになっている。
と書いてあります。つまり、
想余皆如此、其実四字句也。
想うに余もみなかくのごとく、その実は四字句なり。
「泰山のことば」から類推するに、他の五字句も全部同様に、二十・三十ではなく「廿」「卅」で、実際はこれらも四字の句なのだ。
逆に四字句にするために、「有」や「維」を付け加えていたのである。
太史公誤易之、或後人伝写之訛耳。
太史公、誤まちてこれを易うるか、あるいは後人の伝写の訛なるのみ。
太史公・司馬遷が誤解して書き換えてしまったのか、あるいはそれ以降の人たちの書写の際の変更にすぎないのであろう。
ということでこの問題は解決。今晩はぐっすり眠れるはずだぞ。
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清・阮癸生「茶余客話」巻十六より。なお、宋のひと洪邁も「容齋随筆」でほぼ同じ結論に達しているそうです。みんな頭いいなあ。
さて、今日は卅一日。今月も終わりです。来月は廿九日までしかありません。廿八日ではないですよ。