一日千里(一日に千里)(「茶余客話」)
人間の限界はどのあたりであろうか。

カッパやあずきあらいには限界はないであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
我が清朝においては、
文書緊急者、向例駅逓日行六百里。
文書の緊急なるものは、向(さき)には駅逓日に六百里に行くを例とす。
文書の中でも緊急を要するものは、以前は宿駅を次々と伝えて、一日六百里の行程が常例となっていた。
清代の一里=576メートルなので、計算がめんどくさいから600メートルにします。一日六百里は360キロメートルになります。
乾隆年間に至り、
近因軍営羽書有八百里加緊者、経過郵站、画定時刻、処分極厳。
近くは、軍営羽書に因りて八百里に緊を加うるもの有り、郵站を経過するに時刻を画定し、処分極めて厳なり。
最近では、軍事の最速郵便には、一日八百里まで行程を増やしているものがある。これは宿駅を通過する際の時刻が決めてあり、これに遅れると厳しいお咎めを受けるのである。
八百里だと480キロになります。
少し歴史的に振り返ってみますと、
元時呼快行役曰貴由赤、官試之、限三時行一百八十里、以先到者為上。
元の時、快行役を呼びて「貴由赤」と曰い、官これを試みるに、三時を限りて一百八十里を行かしめ、先に到る者を以て上と為せり。
元の時代には、速報を運ぶ役の人を「グユチ」と呼んでいた。係ではこの役のやつらを試験すると称して、三刻(約6時間)の間に百八十里を移動させ、他より先についた者に高い評価を与えたそうだ。
元代の一里は553メートルで、清代より少し短いのですが、めんどくさいので600メートルで計算して108キロ。少し短いのを勘案して(細かい暗算ができない)、一日ぶっ通しでこのスピードでいけるとして、400キロぐらいでしょうか。
この試験の時は、不正があるといけないので、
初試時、監臨官封記其発、以一縄攔定、俟斉立去縄令走。
初試の時、監臨の官その発を封記し、一縄を以て攔定して、斉立を俟ちて縄を去りて走らしむ。
試験開始の際に、監督の役人が出発時間を記した書を封じて参加者に持たせ、一本の縄を伸ばして走者を遮断しておいて、全員が並んで立ったところで縄を外し、出走させるのである。
河西から上都・カラコルムや、泥河から北京の宮中へ走らせ、
直至御前。頭名賞銀一錠、第二緞表裏四。
直に御前に至る。頭名は賞銀一錠、第二は緞表裏四なり。
皇帝の前まで真っすぐ行かせたのである。一等賞には銀貨一枚が与えられ、二等賞には緞子四枚と決まっていた。
その後、
明季李道夫三才、撫淮時、有兵顧姓、一日可行千里。
明季・李道夫三才の撫淮の時、兵・顧姓なる有りて一日に千里を行くも可なり。
明の末に李道夫(字・三才)が淮水方面の総督をしていたとき、部下に顧なにがしという兵がいて、一日に千里行けたそうである。
明の一里は約560メートル、そのまま千倍すると(これぐらいの暗算はできる)560キロメートルです。
すごいですね。こいつが今のところ人類最高かも。
・・・・・・・・・・・・・・・・
清・阮葵生「茶余客話」巻六より。箱根まで往復で約217キロ、二日だから一日105~9キロ、これに比べて「チャイナはすごい!万国びっくり!」と思うかも知れませんが、向こうは騎馬だと思いますので、念のため。
全く見てないので結果も知らないのですが、否定的なのではありません。がんばれ、がんばれ。ただ、高野〇と同じ構造(メ〇ィア+一部ス〇ール)のスポーツ利〇的なものにはちょっと抵抗があるだけで・・・。