唯不可俗(ただ俗なるべからず)(「山谷題跋」)
そのときになればわかる、というのである。様子を見るしかあるまい。

ニワトリが先かヒヨコが先かもわかるでコケ
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晋の嵆康は
平生濁酒一盃、弾琴一曲、志意畢矣。
平生、濁酒一盃、弾琴一曲にて、志意畢れり。
「おれの人生は、濁り酒一杯をあおって琴を一曲弾けば、やりたいことは全部やったことになるのさ」
と嘯いたという(「晋書」本伝)。
今は宋の時代だが、わし(山谷先生・黄庭堅)が思うに、
嵆叔夜豪壮清麗、無一点塵俗気。
嵆叔夜は豪壮清麗、一点の塵俗の気無し。
嵆康(字・叔夜)という人は、豪快で壮大で清潔で美麗、とにかく一点も汚れた現世の気分が無かったといえるだろう。
想見其人、雖于沈世故者、暫而攬其余芳、便可撲去面上三斗俗塵矣。
その人を想見すれば、世故に沈む者においても、暫くその余芳を攬(と)りて、すなわち面上の三斗の俗塵を撲去すべし。
その人柄を想像してみなさい。そうすれば、現世のどろどろの中に沈み込んでいるような人でも、とりあえず彼の残り香をつかんで、(それで顔を洗えば)顔にたまった三斗(48リットル)の世俗の塵を払いのけることができるにちがいない。
あくまで譬喩ですよ。
故書以付榎、可与諸郎皆誦取、時時諷詠、以洗心忘倦。
故に書して榎(か)に付す、諸郎とみな誦取し、時々に諷詠して、以て心を洗い倦むを忘るべし。
そういう素晴らしい人なので、(特に気に入った彼の詩を書きだして、甥の黄榎に預けてそちら(郷里)に届けさせるので、若い衆と一緒にみんなで覚えること。覚えて、おりおりに声に出してうたってみて、心を洗い、けだるさを払いのけて、立派に生きて行ってほしい。
・・・残念ながら、山谷先生が気に入った詩が何であったかは今となってはもうわかりません。
わしは以前、弟子や一族の若い者たちにこう言ったものである。
士生于世、可以百為、唯不可俗、俗便不可医。
士の世に生きるに、百為を以てすべく、ただ俗なるべからず、俗なるはすなわち医すべからざればなり。
「士」はいろんな含みのあるコトバですが、とりあえず「読書人」と訳しておきますね。
「読書人がこの世で暮らしていくには、いろんな生き方があってよろしい。ただ、俗になってしまってはいけない。俗になってしまうと、治すことができないのだぞ」
一人、こんなことを訊いてきた。
不俗之状、如何。
俗ならざるの状、如何。
「その、俗でない、というのは、どういう状態をいうのですか(。それを目指したいと思うのですが)」
わしは答えた。
難言也。視其平居、無以異于俗人。
言い難きなり。その平居を視るに、俗人に以て異なる無し。
「これが説明しにくい。俗でない人は、その人の普段の生活を見ているだけでは、俗人と違わないのじゃ」
「そう来ましたか」
臨大節而不可奪、此不俗人也。
大節に臨んで奪うべからざれば、これ俗人ならざるなり。
「(曾子さまが言ったように)「大問題に対処したときに信念を奪われることがない」ようなら、これは俗人ではないとわかるのじゃ」
「そうですか」
士之処世、或出或処、或剛或柔、未易以一節尽其薀、然率以是観之。
士の世に処する、或いは出で、或いは処(お)り、或いは剛、或いは柔、いまだ一節を以てその薀を尽くし易からず、然れば率(おおむ)ね是を以てこれを観る。
「読書人が現世にいる間、ある時は仕官するであろうし、ある時は家に引きこもるだろうし、ある時は強気に出、ある時は柔軟になり、一つの生き方だけで心に蓄えたものを尽くしてしまうことはできないだろう。それ故、だいたいのところ、これ(大節に臨んで信念を奪われるか否か)を観察するしかないのである」
「なるほど」
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宋・黄庭堅「山谷題跋」補篇より。俗であってはいかん、のはよくわかりました。よし、わたしも俗で無く生きるぞ。しかし俗であるかないかはよくわからないみたいなんです。したがって、わたしもよくわからない感じで生きますが、俗ではないんだと思います。
ちなみに、曾子(孔子の高弟・曾参)のコトバというのは、「論語」泰伯篇に出てきます。
曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也。君子人与。君子人也。
曾子曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人か、君子人なり。
あまりにもかっこいい言葉なので、大きく分けて二つの説があります。なお、古代の一尺は大体20センチ、一里は約400メートル。
あ)身長120センチぐらい(六七歳)の孤児を遺していく男がその子を預けていくことができるような、百里(40キロ四方)ぐらい先の他の諸侯のところに使いに出して任せきれるような、大事件の際にどんなに脅されてもその信念を奪われることがないような、そんな人は、立派なひとではないか。立派なひとに決まっているだろう。
い)身長120センチぐらい(六七歳)の幼い主君を輔佐して(主君を立てながら)間違わない。一辺百里(40キロ)ぐらいの小さな国の政治を任せることができる。生きるか死ぬかの瀬戸際の時に、信念を奪われることがない。そんな人は、十分すぐれた指導者ではないか。十分すぐれた指導者に決まっているだろう。
科挙試験も無いので、好きな方を選んでくださいネ。(科挙試験を受ける人は(い)の朱子の説を選んでおくのが安全。)