養成其悪(その悪を養成せり)(「了凡四則」)
堪えて生きて、悪になってしまうこともあるのじゃ。

ばとうされてもがまんにゃー。てれび局もにゃ。
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明前期の宰相・呂原さまは、字・逢源、介庵と号し、永楽十六年(1418)浙江・嘉興の生まれ、正統七年(1442)の進士、土木の変前後の困難な時代を乗り切り、天順元年(1456)内閣大学士、天順六年(1662)卒、年わずかに四十五歳、謚号して文懿と称す、という立派なひとですが、
初辞相位、帰故里、海内仰之、如泰山北斗。
初めて相位を辞して故里に帰るに、海内これを仰ぐこと泰山北斗の如し。
(家庭に不幸があって)大臣の位を辞して、はじめて郷里に帰った。このころ、国内では、呂原さまは、まるで山なら泰山、星なら北斗を仰ぐようにたいへん尊敬されていた。
ところが、
有一郷人、酔而罵之。
一郷人有りて、酔いてこれを罵れり。
故郷のある人が、酔っぱらって呂原さまに罵声を浴びせおったのだ!
呂公不動、謂其僕曰、酔者勿与較也。閉門謝之。
呂公不動にして、その僕に謂いて曰く、酔者はともに較(きそ)う勿れ、と。閉門してこれを謝す。
呂公は、(権力を動かすこともできたのだが)積極的な行動はとらず、下働きの童子に、「酔っ払いと争うとばかをみるぞ」「あいあい、まったくでございまちゅ」と言って、門を閉ざしてそいつとかかわりを持とうとしなかった。
逾年、其人犯死刑入獄、呂公始悔之。
逾年、その人死刑を犯して入獄し、呂公始めてこれを悔ゆ。
一年後、その人は死罪に当たる犯罪を仕出かして、獄にいれられてしまった。これを知って呂公ははじめて過去の判断を後悔した。
「何を後悔しているのでちゅか」
使当時稍与計較、送公家責治、可以小懲而大戒。
当時をしてややともに計較し、公家に送りて責治せしむれば、小懲を以て大戒すべかりき。
「あのとき、もう少し相手をして争って、権力を使って役所に送致して「えらい役人である呂公を罵倒するとは何事か」と叱っておいてもらえば、小さく懲らしめて大きく戒しめることになっただろうになあ」
「ほう」
吾当時唯欲存心于厚、不謂養成其悪、以至于此。
吾、当時ただ心を厚きに存せんとし、その悪を養成すと謂(おも)わず、以てここに至れり。
「わしはあのとき、ただ自分の心を寛大にしようと考えていただけで、彼の悪を養い育てることになるとは思わなかったのだ。それでこんなことになってしまった」
と言ったという。
此以善心而行悪事者也。
これ善心を以て悪事を行うものなり。
これは、善い心で悪い事をしてしまった、という事例である。
又有悪心而行善事者。如某家大富、値歳荒、窮民白昼搶粟于市。
また悪心にして善事を行う者有り。某家の大富にして歳荒に値(あ)えるが如きは、窮民白昼に市に粟を搶せり。
「搶」(そう)は「掠め取る、略奪する」の意です。
また、悪い心で善い事をしてしまったということもある。ある大富豪の家で、飢饉の年に起こった事案などをはこれに当たるだろうが、このとき、困窮した人民たちは、(夜ではなく)真昼間から、その家の店先からアワを盗み取ったのだった。
「けしからんやつらじゃ」
告之県、県不理。窮民愈肆、遂私執而困辱之、衆始定。不然、幾乱矣。
これを県に告ぐるも、県理(おさ)めず。窮民いよいよほしいままにし、遂に私執してこれを困辱して、衆始めて定まる。然らざれば、ほとんど乱れんとせり。
県庁に何とかしてくれと訴えたが、県庁ではそれぐらいガマンしろと取り合わなかった。困窮した人民たちはますます好き放題に奪っていく。そこで、大富豪は自家の使用人とともに人民たちを捕まえ、おおいに殴ったり罵倒したりした。それで、人民たちはようやく治まって、静かになったのである。そうしなければ、県庁も巻き込んだ暴動になるところであったという。
少しわかりづらいのですが、施しもせず窮民を逮捕して暴力を振るうのは悪い心からしたことなのですが、それが結果として暴動を防いだ、ということで善行になった、ということではないかと思います。
暴動にならなくて、よかったよかった。
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明・袁黄「了凡四則」より。「了凡」は袁黄の号で、子孫のために、「凡人であることをやめて善いことをしろ」と戒めた書ですが、あまりによくまとまっているために出版されて、大人気になりました。「陰隲録」(陰でいいことをしよう、の本)という題名でも知られています。袁黄は、少年時代に占い師に試験に受かる年、順位などを予言され、それがことごとく当たったので、人生はすべてが先に決まっているのだと考えて悟っていたところ、二十歳ごろに坊主から
命由我作、福自己求。
命は我に由りて作(おこ)り、福は自己より求む。
運命はおまえが作るもの、幸福は自分で探すものじゃ!
と教えられ、それからは「善の行い」を為すようにしたら、進士の試験には予言よりも高い順位で合格し、さらに「無子」(子どもはできない)と言われていたが、善行を積んで努力?したら子どもが出来て、子孫もたくさん増えた、というようなことを書いておられます。