1月27日 堪えて生きればやがて花咲くかも

養成其悪(その悪を養成せり)(「了凡四則」)

堪えて生きて、悪になってしまうこともあるのじゃ。

ばとうされてもがまんにゃー。てれび局もにゃ。

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明前期の宰相・呂原さまは、字・逢源、介庵と号し、永楽十六年(1418)浙江・嘉興の生まれ、正統七年(1442)の進士、土木の変前後の困難な時代を乗り切り、天順元年(1456)内閣大学士、天順六年(1662)卒、年わずかに四十五歳、謚号して文懿と称す、という立派なひとですが、

初辞相位、帰故里、海内仰之、如泰山北斗。

ところが、

有一郷人、酔而罵之。

呂公不動、謂其僕曰、酔者勿与較也。閉門謝之。

逾年、其人犯死刑入獄、呂公始悔之。

「何を後悔しているのでちゅか」

使当時稍与計較、送公家責治、可以小懲而大戒。

「ほう」

吾当時唯欲存心于厚、不謂養成其悪、以至于此。

と言ったという。

此以善心而行悪事者也。

又有悪心而行善事者。如某家大富、値歳荒、窮民白昼搶粟于市。

「搶」(そう)は「掠め取る、略奪する」の意です。

「けしからんやつらじゃ」

告之県、県不理。窮民愈肆、遂私執而困辱之、衆始定。不然、幾乱矣。

少しわかりづらいのですが、施しもせず窮民を逮捕して暴力を振るうのは悪い心からしたことなのですが、それが結果として暴動を防いだ、ということで善行になった、ということではないかと思います。

暴動にならなくて、よかったよかった。

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明・袁黄「了凡四則」より。「了凡」は袁黄の号で、子孫のために、「凡人であることをやめて善いことをしろ」と戒めた書ですが、あまりによくまとまっているために出版されて、大人気になりました。「陰隲録」(陰でいいことをしよう、の本)という題名でも知られています。袁黄は、少年時代に占い師に試験に受かる年、順位などを予言され、それがことごとく当たったので、人生はすべてが先に決まっているのだと考えて悟っていたところ、二十歳ごろに坊主から

命由我作、福自己求。

と教えられ、それからは「善の行い」を為すようにしたら、進士の試験には予言よりも高い順位で合格し、さらに「無子」(子どもはできない)と言われていたが、善行を積んで努力?したら子どもが出来て、子孫もたくさん増えた、というようなことを書いておられます。

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