在自家頭上(自家頭上に在り)(「嘯亭実録」)
あれは、ぽん、と切られたらもう終わりですからなあ。

逆さくびには下になる。
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清の名君・乾隆帝の若いころの政治を支えたのは、漢民族出身の張廷玉と満州族の鄂爾泰(あるたい)の二人であったと言われます。
特に張廷玉は雍正年間から二十年以上も内閣大学士(宰相)の地位にあり、雍正帝が
問其各部院大臣及司員胥吏之名姓、公縷陳名姓籍貫及其科目先後、無所錯誤。
その各部院の大臣及び司員・胥吏の名姓を問うに、公、縷々として名姓・籍貫及びその科目先後を陳(の)べ、錯誤するところ無し。
各省・機関の幹部、事務官、庶務の下っ端の姓名を知っているか問うたところ、張どのは、糸を吐きだすように、下っ端まで含めて、職員の姓名、出身地、さらに合格した試験資格とその年次を次々と陳述した。全く間違いはなかった。
さすがに勤勉を以て聞こえた雍正帝も舌を巻いたという。
というぐらいの人物というかすごい人であった。
凡其所平章政事及召対諸語、帰家時、灯下蠅頭書於秘冊、不遺一字。
およそその政事を平章し、及び召対するところの諸語、帰家の時、灯下に蠅頭を秘冊に書し、一字も遺(のこ)さず。
毎日、内閣で案件を処理したときの発言、および皇帝の前に呼ばれて応対したコトバなど、家に帰った後で、あかりの下でハエの頭のような(細かい)文字で秘密のノートに書き写していたが、一字も記憶していないということが無かった。
晩年のある日、昼間のことをノートにつけていて、
書顛倒一語、自擲筆嘆曰、精力竭矣。
一語を顛倒して書き、自ら筆を擲って嘆いて曰く、「精力竭きたり」と。
ひとこと、前と後を間違って書いてしまった。それに気づいて筆を投げ捨てて、大きなためいきをついて、
「わしももうおしまいじゃ」
と言った、という。
その後しばらくして乾隆帝に党派性を叱責されて免職になったが、ときに既に八十数歳であった。
ちなみに、
与鄂爾泰公同事十余年、往往竟日不交一語。
鄂爾泰公と事を同じくすること十余年、往往にして竟日一語も交えず。
十数年にわたって、鄂爾泰どのと内閣大学士(宰相)として並び立っていたが、一日中ひとことも会話しないことがよくあった。
とにかく仲が悪かったのだ。
もし張廷玉が何か言うときは、
鄂公有所過失、公必以微語譏諷、使鄂公無以自容。
鄂公の過失するところ有れば、公必ず微語を以て譏諷し、鄂公をして以て自容無からしむ。
鄂どのに何か失敗があったときだけであった。そういうことが何かあると、張どのは必ずちょっとした物言いで批判し、鄂どのが自分の失敗を気にしないでいられないようにしたのであった。
ある夏の日のこと、
鄂公脱帽乗涼、其堂宇湫隘。鄂公環視曰、此帽置於何所。
鄂公脱帽して乗涼せんとするに、その堂宇湫溢(しょうあい)なり。鄂公環視して曰く、この帽、何れのところに置かんか、と。
鄂どのは帽子を脱いで涼もうとしたが、その部屋はせまくて人でいっぱいであった。鄂どのはぐるりと見まわして、言った、
「この帽子をどこに置けばいいかのう」
それを聞いた張廷玉は、にやりと笑って言った、
此頂還是在自家頭上為妙。
この頂、またこれ自家頭上に在るも妙と為す。
「その帽子を載せる頭が、まだ自分のクビの上にあることこそ不思議なことであろうに(、ほかの置き場を探すとはのう)」
と。
鄂公神色不怡者数日。
鄂公の神色怡ばざるもの数日なり。
鄂どのの顔つき、みるみる強張って、数日の間やわらぐことがなかった。
ということである。
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清・愛新覚羅昭連「嘯亭雑録」巻六より。帽子をかぶっている人は大失敗しても、「この帽子を置く場所はありますかのう、自分の頭はもう無くなりますのでのう」と言って覚悟を示すことができるから便利ですね。暑いとき・寒いとき・〇ゲたときは、かぶっておいた方がいいと〇本全勝さんに教えてもらいました。