算数被恩遇(算数にて恩遇せらる)(「郎潜紀聞」)
数学できるひとは尊敬に値します。

肝冷斎どの、勉強しないとぼけてきますぞ! あ、もう・・・
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清・康熙帝は、まことに文明を重んじられたので、
凡耆儒碩学名山著書者、其姓氏多達睿聴。
およそ耆儒・碩学・名山著書者、その姓氏多く睿聴に達す。
老成した儒者、偉大な学者、高く評価された書物の著者などの姓名をずいぶんお聴きになっておられた。
ある日、名臣として名高い文貞公・李光地さまがお一人だけで帝と会話しておられたとき、
上偶問今時夷退之士。
上、たまたま今時の夷退の士を問う。
「夷退」の「夷」は「易」、たやすい。退き易い、とは、推薦されても辞退して表に出て来ない、というような意味です。
帝は、話の流れで、「現代の隠逸の士、といえばどんな人がおるのか」と訊いた。
李公はただちに答えた、
宣城梅文鼎、関中李容、河南張沐。
宣城の梅文鼎、関中の李容、河南の張沐ならん。
「安徽・宣城の梅文鼎、関中の李容、河南の張沐でございましょう」
「なるほど」
上親筆記之御箑。
上、親(みず)からこれを御箑(ぎょそう)に筆記す。
「箑」(そう)は薄く切った干し肉を表すこともあるのですが、扇・団扇のこともいいます。確かになんとな似ている・・・んでしょう。
帝はおん自ら筆をとられ、三人の名前を手にしておられた団扇に書きつけた。
その後、
屢語廷臣、嘉歎特至。中外聞風、因号文鼎等為海内三隠。
しばしば廷臣に語りて、嘉歎して特に至れり。中外風を聞き、因りて文鼎等を「海内三隠」と号せり。
何度もこのことを宮廷の近臣らに話され、いつも(李光地の見事な対応と三人の隠者のことを)ほめそやし、ため息をつくほどであった。近臣たちだけでなく宮殿の外のやつらにもその雰囲気が伝わり、誰いうとなく梅文鼎らの三人を「海のこちらの三隠者」と呼ぶようになった。
かっこいいですね。
康煕四十三年(1704)、江南巡行の際、帝は特に希望して梅文鼎を
召見於御舟中。
御舟中に召見さる。
運河を下る途中で、乗船の中に召し出されて会見した。
梅文鼎は
少攻推歩之学、著書満家。
少(わか)くして推歩の学を攻(おさ)め、著書家に満つ。
若いころに測量や図面の学問を研究し、著書(の原稿)が家いっぱいになるぐらいの著作を書いていた。
という人物、帝は会見して、
嗟為雅士、並惜其老。
雅士たるを嗟し、並びにその老いたるを惜しめり。
実に風雅な人物であることに感嘆したが、一方でもう老齢で、仕えてもらえないことを惜しんだ。
年寄は大事にしなければなりませんぞ。
そこで、
賜御書珍饌、命其孫直内廷。
御書と珍饌を賜い、その孫を命じて内廷に直せしむ。
ご自分の揮毫された書を賜った。あわせて、美味そうな食い物を下された。そして、本人は諦めて、孫を一人、自分の側近として宮中に宿直させるよう推薦させた。
たいへんな栄誉である。
説者謂以算数被恩遇、未之有也。
説者謂う、算数を以て恩遇を被ること、いまだこれ有らざるなり、と。
ひとびとは「数学のおかげでこんな待遇をしてもらった人なんて、歴史上いませんよ!」と騒ぎ立てたのであった。
なお、この孫が康熙帝とともに西洋数学を研鑽し、やがて
二人之学、弥益精邃。
二人の学、いよいよ精邃を益す。
二人の学問はさらにどんどん精しく、奥深くなっていった。
そして、周囲の者には二人の会話が理解できなくなってしまった、といわれた有名な梅轂成でございます。
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清・陳康祺「郎潜紀聞」初筆巻六より。ちなみに帝と梅轂成は、
随意作両点、自用規尺画図、即得相去幾何之法。
随意に両点を作すに、自ら規尺を用いて画図して即ち相去ること幾何なるかの法を得たり。
どちらかから、随意に二つの点を示すと、もう一方がコンパスと定規だけを用いて図を画き、そこから二点の間の距離を推測する方法を得ていた。
というのですが、肝冷斎に出来ないのは明らかなのですが、これがどれぐらいすごいことなのか、もよくわからないのでございます。筆者の陳康祺さんもどこまでわかっていたか。博雅のご教示を俟・・・とうかと思いましたが、勉強はもう若い人に任せておきますわい。ふほほほ。