1月25日 もう若いものに任せますわい

算数被恩遇(算数にて恩遇せらる)(「郎潜紀聞」)

数学できるひとは尊敬に値します。

肝冷斎どの、勉強しないとぼけてきますぞ! あ、もう・・・

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清・康熙帝は、まことに文明を重んじられたので、

凡耆儒碩学名山著書者、其姓氏多達睿聴。

ある日、名臣として名高い文貞公・李光地さまがお一人だけで帝と会話しておられたとき、

上偶問今時夷退之士。

「夷退」の「夷」は「易」、たやすい。退き易い、とは、推薦されても辞退して表に出て来ない、というような意味です。

李公はただちに答えた、

宣城梅文鼎、関中李容、河南張沐。

上親筆記之御箑。

「箑」(そう)は薄く切った干し肉を表すこともあるのですが、扇・団扇のこともいいます。確かになんとな似ている・・・んでしょう。

その後、

屢語廷臣、嘉歎特至。中外聞風、因号文鼎等為海内三隠。

かっこいいですね。

康煕四十三年(1704)、江南巡行の際、帝は特に希望して梅文鼎を

召見於御舟中。

梅文鼎は

少攻推歩之学、著書満家。

という人物、帝は会見して、

嗟為雅士、並惜其老。

年寄は大事にしなければなりませんぞ。

そこで、

賜御書珍饌、命其孫直内廷。

たいへんな栄誉である。

説者謂以算数被恩遇、未之有也。

なお、この孫が康熙帝とともに西洋数学を研鑽し、やがて

二人之学、弥益精邃。

そして、周囲の者には二人の会話が理解できなくなってしまった、といわれた有名な梅轂成でございます。

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清・陳康祺「郎潜紀聞」初筆巻六より。ちなみに帝と梅轂成は、

随意作両点、自用規尺画図、即得相去幾何之法。

というのですが、肝冷斎に出来ないのは明らかなのですが、これがどれぐらいすごいことなのか、もよくわからないのでございます。筆者の陳康祺さんもどこまでわかっていたか。博雅のご教示を俟・・・とうかと思いましたが、勉強はもう若い人に任せておきますわい。ふほほほ。

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