1月24日 太守でも焚いて暖まりたい

太守自焚(太守自焚せん)(「松窗夢語」)

むかしの人は簡単に命をかけたのです。あるいは命の値段が安かったのか。

雪が降れば思い出す~。

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明・嘉靖二十四年(1545)のことだが、

夏、廬陽旱。

そして、おれはこのとき、廬陽県の知事であった。いろいろマジメに人民の福祉に役立つこともやり、それなりにうるさい土地の長老たちの信頼も得かかっていたのに、ついていなかった。

余疏食齋居、晨昏素服徒歩郊壇、祷至七日不雨。

祈祷したってしょうがない、とはおれもわかっているが、こういうことでもしないと人民たちが居ても立ってもいられなくなって、不穏になるのである。

祭壇には、付近の村の長老たちも集まってきて一緒に祈祷するのだが、今日も効果は無さそうだ。

余語衆父老曰、祈求不応、是無神矣。亟取薪来、尽収所設神像焚之。

「はあ」

訝しがる長老らに、おれは続けて、

明日不雨、太守将自焚。

と言って、壇から降りた。やけくそである。

すると、県庁の理事官(司理官)であった陳儒が駆け寄ってきて、

公言何遽。

おれは言った、

一身無足惜、惜万衆無以聊生耳。

ホントである。知事は何もしてくれなかったとか、どんな批判をされるかわからない。

陳は言った、

知公重民命、姑緩至三日未晩。

「もう明日でいい」

余与陳復曝烈日歩帰。

城門に入る直前でもまだ言い争っていると、

黒雲四起、巨雷大震。

やがて強い風に吹き飛ばされそうになりながら、

方憩郡庭、大雨如注。

「雨だ!」「うひゃひゃひゃ」

陳は狂喜して、「喜雨記」という歌を作って即興で歌い出した(この歌はその後清書してその年の「郡記」に記載されている)。おれは庭に座り込んで雨を浴びながら大笑いしていたが、やがて気づいて、郊外の祭壇に人を走らせた。神像を焼くのを中止させたのである。

おかげで命拾いした。明日はお礼の禱りを捧げなければならない。

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明・張瀚「松窗夢語」巻一より。どうなることかと心配しましたが、よかった。著者がまだ三十過ぎたばかり、はじめての知事勤めの時のことですので、一人称を「おれ」にしてみました。なかなか簡潔で緊張感のある文章ですね。

今日は日本海側は大雪だそうです。

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