太守自焚(太守自焚せん)(「松窗夢語」)
むかしの人は簡単に命をかけたのです。あるいは命の値段が安かったのか。

雪が降れば思い出す~。
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明・嘉靖二十四年(1545)のことだが、
夏、廬陽旱。
夏、廬陽、旱す。
この年の夏、安徽・合肥の廬陽県はひどい日照りになった。
そして、おれはこのとき、廬陽県の知事であった。いろいろマジメに人民の福祉に役立つこともやり、それなりにうるさい土地の長老たちの信頼も得かかっていたのに、ついていなかった。
余疏食齋居、晨昏素服徒歩郊壇、祷至七日不雨。
余、疏食齋居し、晨昏に素服して郊壇に徒歩、祷ること七日に至るも雨ふらず。
おれは、食べ物を減らし、物忌みして(女房も近づけず)、毎日、朝と晩には白い服を着て歩いて城壁の外の祭壇に行き、そこで祈祷を捧げていた。七日も続けても雨が降らない。
祈祷したってしょうがない、とはおれもわかっているが、こういうことでもしないと人民たちが居ても立ってもいられなくなって、不穏になるのである。
祭壇には、付近の村の長老たちも集まってきて一緒に祈祷するのだが、今日も効果は無さそうだ。
余語衆父老曰、祈求不応、是無神矣。亟取薪来、尽収所設神像焚之。
余、衆父老に語りて曰く、「祈求すれども応じざるは、これ神無きなり。すみやかに薪を取り来たり、ことごとく設くるところの神像を収めてこれを焚け」と。
おれは、その長老たちに向かって言った、
「こんなに祈り求めても何の応えも無いのだ、つまり神さまなんかいないということだ。すぐ焚き木を持ってきてくれ。祭壇に設けてある神さまたちの像を全部取りかたずけて一か所に集め、これから燃やしてしまうように」
「はあ」
訝しがる長老らに、おれは続けて、
明日不雨、太守将自焚。
明日雨ふらずんば、太守まさに自焚せんとす。
「神像を片づけてしまって、明日も雨が降らないようだったら、今度はおれを燃やすことにする」
と言って、壇から降りた。やけくそである。
すると、県庁の理事官(司理官)であった陳儒が駆け寄ってきて、
公言何遽。
公の言、何ぞ遽(にわか)なる。
「知事どの、何故急にあんなことをおっしゃる?」
おれは言った、
一身無足惜、惜万衆無以聊生耳。
一身惜しむに足る無し、惜しむらくは万衆の以て聊かも生きる無きことのみ。
「おれなんかどうなったっていいんだ。人民のみなさまが生きる手立てを失くしてしまいそうなのが心配なんだ」
ホントである。知事は何もしてくれなかったとか、どんな批判をされるかわからない。
陳は言った、
知公重民命、姑緩至三日未晩。
公の民命を重んずるを知るも、しばらく緩うして三日に至るもいまだ晩からざらん。
「知事どのが人民の生命を重視しているのは知っております。もう少しだけ、三日の猶予を設けて、三日後まで降らなかったら、知事どのを焼きます。それでも遅くはないでしょう」
「もう明日でいい」
余与陳復曝烈日歩帰。
余、陳とまた烈日に曝されつつ歩き帰る。
おれと陳は、昼近くなって激しく照りつける太陽の下、(物忌み中だから)徒歩で、笠もささずに県庁に帰ろうとした。
城門に入る直前でもまだ言い争っていると、
黒雲四起、巨雷大震。
黒雲四起し、巨雷大震す。
黒雲が四方から湧き出し、ごろごろ巨大な雷の音がしはじめた。
やがて強い風に吹き飛ばされそうになりながら、
方憩郡庭、大雨如注。
まさに郡庭に憩うに、大雨して注ぐが如し。
県庁の庭に飛び入って一息ついたその時―――大雨が注ぎ落ちるかのように降ってきたのである。
「雨だ!」「うひゃひゃひゃ」
陳は狂喜して、「喜雨記」という歌を作って即興で歌い出した(この歌はその後清書してその年の「郡記」に記載されている)。おれは庭に座り込んで雨を浴びながら大笑いしていたが、やがて気づいて、郊外の祭壇に人を走らせた。神像を焼くのを中止させたのである。
おかげで命拾いした。明日はお礼の禱りを捧げなければならない。
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明・張瀚「松窗夢語」巻一より。どうなることかと心配しましたが、よかった。著者がまだ三十過ぎたばかり、はじめての知事勤めの時のことですので、一人称を「おれ」にしてみました。なかなか簡潔で緊張感のある文章ですね。
今日は日本海側は大雪だそうです。