以為有道(以て道有りと為す)(「柳河東集」)
奥山のおどろが下も踏み分けて道ある世ぞと人に知らせむ (後鳥羽院)
と言って鎌倉幕府に戦争しかけたんですが敗北してしまいました。いつの世にも道はあったんだろうと思いますが、往往にして踏み間違ってしまうので大変です。

「おどろ」の下にはおれたちもいるかもだぜ。こわいぞ。
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湖南・永州に黄渓という谷があるんだそうです。唐の時代、ここに配流されていた柳宗元が、チャイナには山水の美しくて名のある土地が数百あるが、その最善のものがこの黄渓である、と言っております。
その黄渓は州の役所から七十里(≒30キロ)ぐらい離れているのだそうですが、そこに着いて、
由東屯而行六十歩、至黄神祠。祠之上、両山牆立、丹碧之。
東屯より行くこと六十歩、黄神の祠に至る。祠の上、両山牆立し、これを丹碧せり。
東の集落から六十歩ほど行くと、黄神さまを祀る祠に出くわす。祠の裏側は、二つの山が塀のように並んでおり、(祠を)紅と緑(つまり、花と葉)で飾っているのである。
「黄神というどういう神さまなんですか」
気になりますか。このあと、柳宗元の素晴らしい風景描写があります。ああみなさんに紹介してあげたいなあ。だが、どうしても先に「黄神」のことが知りたいのであれば、風景のところは中略して、そのことについて語りましょう。
・・・第二の淵を経て500メートルぐらい行って大冥川という川に出ると、ようやく渓流がゆったりとしはじめる。どうやらここには水田もあるらしい。
始黄神為人時、居其地。
始め黄神の人たる時、その地に居れり。
もともと黄神さまは人間だったのですが、そのころはここに住んでおられたそうだ。
なんと、人間だったのです。
伝者曰、黄神王姓、莽之世也。莽既死、神更号黄氏、逃来択其深峭者潜焉。
伝者曰く、黄神は王姓、莽の世なり。莽既に死し、神号を更えて黄氏とし、逃げてその深峭なるものを択びてひそめり、と。
伝説を語る者は言う―――黄神さまはもとの姓は「王」氏だ。漢から王朝を奪った新国の王莽の世継ぎだったのだという。王莽が反乱軍によって殺された後、黄神は名前を「黄氏」に替え、長安からの追手を逃れて、わざわざ深く険しい山中を選んで隠れ住んだのである。
始莽嘗曰、余黄虞之後也。故号其女曰黄皇室主。黄与王声相邇、而又有本。其所以伝言者益験。
始め莽つねに曰うに、余は黄・虞の後なり、と。故にその女を号して黄皇室主と。黄と王は声相邇(ちか)く、また本有り。それ伝言者の益々験する所以なり。
(歴史書を開いてみても、確かに)王莽は従来から「自分は超古代の黄帝と虞の舜帝の子孫にあたる」と言っていた。それで、自分の娘を「黄皇室主」と呼ばせていたのである。だいたい、「黄」(ふあん)と「王」(わん)は文字の読みも近いからこれも根拠になりそうである。伝説を語る者のコトバが、ますます本当らしく思われてくるではないか。
うーん。どうでしょうか。
神祇居是、民咸安焉、以為有道。死乃俎豆之、為立祠。後稍徙近乎民。
神祇ここに居り、民みな安んずれば、以て道有りと為せり。死してすなわちこれに俎豆(そとう)し、ために祠を立つ。後にやや民に近きに徙れり。
神さま(のような生前の黄氏)がこの場に住んでいたので、人民たちはみな安堵した。それで、黄氏には道義が有る、といわれたのである。死後は神さまとして、まないたと豆(土器の一種)にお供えを載せてお祀りし、生前の住所に祠を立てた。その後、祠は少しだけ民家に近い、さきほどの場所に移転したのである。
みなさん、知らなかったでしょう。
既帰為記。以啓後之好游者。
既に帰りて記をなす。以て後の好游者を啓くなり。
帰って来て、この文章を書いています。これによって、未来の旅人たちを啓発しようと思うのである。
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唐・柳宗玄「游黄渓記(黄渓に游ぶの記)」(「柳河東集」所収)より。配流八年の柳宗元が、自分よりずっと前にこの地に来た(という伝説の)王莽の世継ぎの方の伝説を聞いて、自分もこの人のように人民の役に立って、この地で神さまとして敬われよう、と心に決めたときの歌なんだそうです。みなさんもどうせなら神さまを目指そう。