行霧作賊(霧を行いて賊を作す)(「後漢書」)
昨日が大寒。これから暖かくなってくるはずだが、まだまだ「五里霧中」だ。あれ? 四字熟語の使い方、間違ってる?

寒くても儲けているやつはいるのだろう。
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後漢のころ、張楷、字・公超という人がいて、「春秋」や「尚書」の学に詳しいとして、
門徒常百人、賓客慕之、偕造門焉。
門徒常に百人、賓客これを慕い、ともに門に造(いた)る。
弟子がいつも百人ぐらいいて、えらい人たちも張楷の学問や人格を好んで、みんなその門にやってきた。
当時、「春秋」や「尚書」の学問は未来を予測することができると考えられていたので、それに詳しい張楷先生は、現代でいえば経済学の、テレビなんかに出て来る花形の評論家の扱いだったのです。「自己責任でしょう」とか「八十歳まで働け」とか言っている先生レベルの大人気だ。
ただし、張楷はそこまではおろかではなかった、というかなんというか、
「この状況は危険じゃ」
と、
疾其如此、輒徙避之。
そのかくの如きなるを疾(にく)み、すなわち徙りてこれを避く。
その状況を嫌がって、これを避けるために移転してしまった。
夜逃げ同様で都・洛陽から離れてしまった。
そうなると、
家貧無以為業、常乗驢車至県売薬、足給食者、輒還郷里。
家貧にして以て業を為す無く、常に驢車に乗りて県に至りて売薬し、給食に足れば、すなわち郷里に還る。
貧乏で、農業をする土地も無いので、いつもロバに牽かせた車に乗って県庁所在地まで出かけて自家製のクスリを売った。それでなんとか食べ物を確保することができれば、地元に帰るのであった。
かくしているうちに、
隠居弘農山中、所居成市、後華陰山南遂有公超市。
弘農山中に隠居するに、居るところ市を成し、後、華陰山南に遂に公超市有り。
河南の弘農郡の山中に隠居していたのだが、そのうちに周囲に学問をしたい人たちが集まって都市化したので、いつの間にか、隠棲していた華陰山の南側に「公超市」という名前の町ができたほどであった。
いろんな地方の有力者や各省庁(五府)から招かれたが、仕官の招きはすべて断っていた。〇〇大臣になったりするほどにはおろかではなかったんでしょう、とかなんとか。
ところで、このひと、こんなに権力との関係を避けていたのですが、
性好道術、能作五里霧。時関西人裴優亦能為三里霧。
性道術を好み、よく五里の霧を作す。時に関西人・裴優またよく三里霧を作せり。
もともと不思議な術を好んでいて、2キロぐらいの範囲に霧を発生させることができた。おなじころ、函谷関の西の長安近郊に裴優(はい・ゆう)という人がいて、彼は1.2キロぐらいの範囲に霧を発生させることができた。
裴優は、
自以不如楷、従学之。楷避不肯見。
自ら以て楷に如かずとし、これに従学す。楷、避けて見(あ)うを肯ぜず。
自分で「どうも張楷どのには敵わんのう」と言って、楷に入門しに来た。楷は裴優を避けて、面会さえしなかった。
その性格の危険なのを見抜いていたのである。
その後、桓帝の時代に、
優遂行霧作賊。事覚被考、引楷言従学術、楷坐繋廷尉詔獄、積二年、作尚書注。
優、遂に霧を行いて賊を作す。事覚して考せらるに、楷を引きて術に従学すと言い、楷、坐して廷尉の詔獄に繋がれ、二年を積して尚書の注を作れり。
裴優はとうとう霧を起こして強盗事件を起こし、ばれて取り調べを受けた際、楷の術を学んだのだと言って罪に引き込もうとした。楷は皇帝からの逮捕状で捕らえられ、洛陽の検察に二年間留置されたが、その間に「尚書」の注釈書を書いた。
後以事無験、見原還家。
後、事に験無きを以て、原の家に還らさる。
その後、無実であったことが明らかになって、家に帰ることができた。
さて、
建和三年、下詔安車備礼聘之、辞以篤疾不行。年七十、終於家。
建和三年、詔を下して安車に礼を備えてこれを聘(まね)くも、辞するに篤疾を以てして行かず。年七十、家に終わる。
建和三年(149)、皇帝から詔が下り、今度は豪華な車が遣わされ、礼儀を尽くして招かれた。しかし、楷は「重篤な病気になっております」ということを理由にして赴かなかった。その後しばらくして、家で亡くなった。七十歳の天寿を全うしたのである。
よかったです。
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「後漢書」巻三十六より。わたくしも、門前市をなすほどの弟子が来るといけないと思いましたので、東京を避けて昨日は夏日のところにいました。今日は東京に戻ってきて寒いけどそれほどでもないな。弟子も来てないようです。これならなんとか暖房無しでも無事生きていけるかも。大寒も過ぎて、これからだんだん暖かくなってくるはずですから、なんとかこの冬も乗り越えられそうです。よかったよかった。
ちなみに、「五里霧中」は、この張楷の故事からできたコトバです。張楷はその術使ってないんで、誰も五里霧中にはなってないはずですが。