読書灯在(読書灯在らん)(「列朝詩集小伝」)
夜中に火が必要になる時もあります。

あぶらほしいんにゃ。
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明の都穆、字は玄敬は呉県の人、弘治己未(1499)の進士、年五十四にして致仕した。
帰老之日、斎居蕭然、日事讐討、或至乏食。
帰老の日、斎居蕭然として、日に讐討を事とし、或いは乏食に至る。
「讐討」は「あだうち」ではありません。二つのものを比べて戦わせる、本の校訂をすることです。
老いて郷里に帰った後は、慎まやかで寂しく暮らし、毎日古書の校訂をして、資産が続かずに食べ物が無い日もあった。
すると、いつも笑って言うのであった。
天壌間、当不令都生餓死。
天壌の間、まさに都生を餓死せしめざるべし。
「おてんとさまと大地の間に、この都くん(自分のことです)を餓死させようとする者がいるものか」
そして
一日晏如也。
一日晏如たり。
一日中、のんびりしているのであった。
あるいはこんなことがあった。
呉門有娶婦者、夜大風雨滅燭。
呉門に娶婦者有り、夜大風雨して燭を滅す。
呉の街で、結婚式をしている家があった。ところが、その晩、祝宴中に大いに風と雨が吹き込み、宴会場の灯火がすべて消えてしまった。
「これはいかん」
偏乞火無応者、雑然曰、南濠都少卿家有読書灯在。
火を偏乞するも応者無きに、雑然として曰く、「南濠の都少卿の家に、読書の灯の在る有らん」と。
再度点火するため周囲の家々に火をもらいに行ったが、もう深夜のこととてどの家も応じてくれない。そのうち、誰からともなく、
「南堀町の都少卿の家には、おそらく読書のための灯火が点いているのではないだろうか」
と言い出した。
そこで、
扣其門、果得火。
その門を扣くに、果たして火を得たり。
都家の門を叩いてみると、果たしてそのとおり、灯火が点いていたので、火を分けてもらったという。
其老而好学如此。著述甚富、文筆平衍、詩尤単弱不成家。
その老いて学を好むことかくの如し。著述甚だ富み、文筆平衍にして、詩尤単弱、家を成さず。
年をとってからも学問を好んでいたことは、このとおりであった。著書ははなはだ多い。文章は平板だがのびのびとしていたが、詩はもっとも苦手で、一家を成すには至らなかった。
そういう風流なだけではなかった人です。
余聞之故老。
余、これを故老に聞けり。
わたしは、自分も呉県の出身である。こんなことを長老たちから教えてもらった。
玄敬少与唐伯虎交、最莫逆。
玄敬少にして唐伯虎と交わり、最も莫逆なり。
都玄敬は若いころ、同郷の唐伯虎と親しくしており、最も逆らうなきの友人であった。
唐伯虎は、「風流天下第一才子」とも謳われた明代中期の大文人です。
ところが、
伯虎琑院得禍、玄敬実発其事。伯虎誓不与相見、而呉中諸公皆薄之。
伯虎の琑院に禍を得るは、玄敬実にその事を発す。伯虎、誓ってともに相見ず、呉中の諸公もみなこれに薄しとす。
この唐伯虎は、少し前に、科挙試験の不正に巻き込まれて失脚していた。この事件の密告をしたのが都玄敬で、そのことを伯虎は知っていたので、都穆が帰郷してきても、絶対に会わないことにしていた。そして、呉の有力者や知識人たちもそのことから、みな都穆には冷淡であった。
玄敬其没也、不請銘於呉人。
玄敬それ没するや、銘を呉人に請わず。
だから都玄敬は、死ぬ時に、お墓に刻む生前の功績などの顕彰文は、呉の名文家には依頼しなかった。
密告者の影を持つ人だったのである。
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清・銭謙益「列朝詩集小伝」丙集より。明代(「列朝」とは明の各代の皇帝の時代、の意)の詩人たちの伝記を集めたもの。都穆の立場、同情してしまいます。わたくしも友だちいませんので身に詰まされます。