教子法善(子を教うる法、善し)(「鐙窗琑話」)
昔はいろいろ厳しい時代だったようです。共通テストの反省も忘れないようにしよう。

自己責任でいただきでちゅー。
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明の末ごろ、浙江・嘉興の地に朱国望というひとがいた。国庫に寄付をしてその引き換えに役人になれる「孝廉」の資格をもらっていた。
この朱孝廉が、当時湿地帯で少しの雨でも水害にあっていた両落圩(「圩」(う)は「窪地」)という土地に目をつけて、
以賤値市得数十畝、躬自芟柞、招致失業者計口授田資、以衣食数年、靡利弗興。
賤値を以て数十畝を市得し、躬自ら芟柞(さんさく)して、失業者を招致し、口を計りて田資を授け、以て数年衣食せしむるに、利の興らざる靡(な)し。
安い値段で数ヘクタール(明代の一畝≒6アール)の土地を買い取って、自ら体を使って雑木を伐採して耕地を作って、失業者を招いて家族数に応じて田んぼと資材を与えて、数年間の生活の面倒を見ているうちに、ありとあらゆることが好転して儲かり始めた。
悉有一圩之田、屋舎鱗比、炊煙相交、遂以財雄於郷。建雨匏庵、書雨築庚桑記。
一圩の田を悉く有し、屋舎鱗比して炊煙相交わり、遂に財を以て郷に雄たり。雨匏庵を建て、「雨築庚桑記」を書せり。
窪地中の田んぼはすべて彼の所有で、小作人たちの家はウロコのようにびっしりと並び、互いの炊事の煙が交差するほどで、孝廉はついに財産持ちとして地域で一番になった。雨匏庵(雨ふりひょうたん庵)という別荘を造り、「雨築庚桑記」という本まで書いた。
子孫登科甲数人、孝廉之教子法尤善。
子孫の科甲に登るもの数人、孝廉の子を教うるの法、もっとも善し。
子どもや孫で科挙試験の合格者が何人か出た。孝廉が子どもの勉強をさせる方法が、すばらしかったのである。
悉書舎中墻壁為字、凡甘母抱児出入、即令指示之、識一字即犒以一銭。
書舎中の墻壁悉くに字を為し、およそ甘母の児を抱きて出入りするに、即ちこれに指示して、一字を識らばすなわち一銭を以て犒(ねぎ)らう。
家中の壁や垣根に文字を書き込み、乳母は子どもを抱いて家を出入りするたびに、彼女らに指で示した一文字を抱きかかえた幼児に教えさせる。一字を(子どもが)覚えたら一銭の賞金を女たちに支払うのである。
これによって、
児在懐抱中、日惟有識字為事、比就外傅、則経書諸字識已強半矣。
児、懐抱中に在りて、日にただ識字を事と為す有り、外傅に就く比(ころ)はすなわち経書の諸字、すでに強半を識れり。
子どもはふところに抱かれながら、毎日文字を覚えることだけが仕事となる。こうして、子どもがもう少し大きくなって、外から呼んだ先生につかせるころには、五経に出て来る文字は、半分以上知っているようになったのである。
この方法で子どもを教えれば・・・と思いましたが、もう共通テストは昨日終わってしまいました。残念です。来年がんばろう。
朱家はずいぶん家門も栄えているだろうと思っていたのですが、最近、魏万源が書を寄せるに、
孝廉鼎革後、彭方伯以才得薦、不就。後死於賊。
孝廉、鼎革の後、彭方伯才を以て薦むるを得るも、就かず。後、賊に死せり。
朱孝廉は、明→清の王朝交代の後は、彭太守が彼の才能を評価して(役人に)推薦してくれたのだが、就職しなかった。さらにその後、強盗に襲撃されて死んだのだ。
とのこと。一族全滅でしょう。
可哀也。
哀れむべきなり。
哀しいことではありませんか。
魏万源、詩を附して言う、
我来重展庚桑記、匏葉青辺雨点麤。
我来たりて重ねて「庚桑記」を展ぜんとするに、匏葉青辺、雨点麤(そ)なり。
わたしはこの村に来て、むかし読んだ「庚桑の記」の本をまた読ませてもらおうかと思ったのだが、
(誰も手入れをしない雨匏庵の跡には)ひょうたんの木の葉が青々と茂り、その葉に雨の汚れがまばらについているだけであった。
と。
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清・兪日糸「桐葉偶書」(清・于源「鐙窗琑話」巻三所引)より。財産を獲得して官職も買ってすぐれた子孫がいて、それでも盗賊にヤられてしまうのですから、マジメにやっているだけバカらしくなって、辛亥革命を起こしてしまったんだと思います。税金とって治安が保てないんでは、怒りますよね。災害対策もちゃんとしないと怒りますよ。
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