1月14日 またたくさん食べてしまった

棄其余魚(その余魚を棄つ)(「淮南子」)

理解できない考え方のひとはいます。しかしあちらから見ればこちらも理解できないのであろう。

おいらは土を食べて生きているン。

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むかし、孔子の弟子の曾参が言った、

撃舟水中、鳥聞之而高翔、魚聞之而蔵淵。

以上、実験でした。やはり、

所趍各異而皆得所勉。

人間で考えてみますと、

恵子従車百乗以過孟諸、荘子見之棄余魚。

恵施と荘周は、友人だが、目指す方向性はそれぞれ違ったのである。

それにしても荘周は食べ物を残すとはエラい。わたしどもはあるだけ食べてしまうというのに。

ほかにも、

鵜胡飲水数斗而不足。鱔鮪入口若露而死。智伯有三晋欲不贍。林類栄啓期衣如懸蓑而意不慊。

「鵜胡」(ていこ)はペリカンだというのですが、くちばしで水を掬って中の魚を残して水を吐きだしてしまうので、すごく水を飲むという伝説があったのでしょう。
「鱔鮪」(ぜんい)という魚が日本でいう何なのかすぐには比定できませんが、「鰻」「鱔」「鰌」と並べると、「鰻」は背中が黒くて腹が白、「鱔」は黒と黄色のまだら模様、「鰌」は短いもの、とされるようです(「格致鏡原」などから推定)ので、その類のぬるりとした魚で、おそらく何も食べない、食べると死んでしまう、という伝説があったのでしょう。なんとなくミミズに観察に基づく推理かという気もしますが、鱔にも鮪にも「魚へん」がついているので、ミミズではないと思います。とりあえず「へびうなぎ」と訳しておきます。
「智伯」は春秋末の晋の権力者で、ほかの晋国の豪族であった韓氏・魏氏・趙氏の土地も乗っ取ってしまおうとして失敗して滅ぼされてしまった人。
「林類(りんるい)」と「栄啓期(えいけいき)」はいずれも列仙伝に出てくる古代の仙人です。

整理してみますと、

ということから、三つ目以外は全部ウソで、根拠にならないのです・・・が、

由此観之、則趣行各異、何以相非也。

という結論になりました。

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漢・劉安「淮南子」斉俗訓より。結論は「みんな違ってみんないい」と金子みすず先生のようになっています。如何にもいろんな風俗や来歴の地域と人民を統一した世界帝国・漢の時代らしく、実に雄大、というか粗放な思想ですが、現代もこれからはジェンダーも異文化もいろんな家庭の形も全部OK!が最終勝利かも。そうすると、服無くても蓑だけでいいみたいです。

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