代大匠斲(大匠に代わりて斲る)(「老子」)
「大名人の大工さん」とは、「運命」であろうか「体重増」であろうか。誰もが確実に間もなく斲られるのですが。

おれが刈ってやるでキリー。
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北宋の名儒・張横渠先生が言う(「近思録」106則)に、
既学而先有以功業為意者、於学便相害。
既に学びて先に功業を以て意と為す有る者、学においてすなわち相害す。
「相害す」の「相」は「お互いに」という意味ではなく、「相手(この場合は「学」)のある行為」を意味する補助動詞です。
学問を始めて、まだどうなるかわからないうちから、手柄を立てることを目標にすると、学問との関係では悪い影響を及ぼすことになる。
既有意、必穿鑿創意作起事端也。
既に意有らば、必ず穿鑿し創意して事端を作起すればなり。
そういう目標を立てると、必ず物事を穿って解釈し、自分で考えだして、何かの事案を作りだしてしまうからである。
したがって、そんなことは止めて、目の前のことを一つ一つ解決していきましょう。
徳未成而先以功業為事、是代大匠斲、希不傷手也。
徳いまだ成らざるに先に功業を以て事と為すは、これ、「大匠に代わりて斲るは手を傷つけざること希」なり。
自分の中に得られた力量が無いままに、先に手柄を立てようとして行動するのは、古人のいうとおり、
「大名人の大工に代わって木材を切ろうとするのと同じで、(うまくやり遂げられないだけでなく)手を傷つけてしまわないことが珍しい(ぐらい必ず手をケガするぞ)」。
なるほど。これは危険ですね。新しい職場に異動したばかりの人は、しばらくはひとのやることを見様見真似で勉強するしかありません。
ところで、この
代大匠斲、希不傷手(大匠に代わりて斲るは、手を傷つけざること希なり)
という上手い譬喩は、「老子」に出てきます。張横渠先生の引用では「まず勉強してから行動しよう」という程度の意味ですが、「老子」の考えはもっと恐ろしいのです。いきなり、
民不畏死、奈何以死懼之。若使民常畏而為奇者、吾得執而殺之。孰敢。
民死を畏れざれば、奈何(いか)んぞ死を以てこれを懼れしめん。もし民をして常に畏れしめて奇を為す者は、吾執りてこれを殺すを得とも、孰(たれ)か敢えてせん。
人民が死ぬことを怖がらないようだと、為政者は困るのである。死ぬことを怖がらないなら、死刑を以て脅すことができないではないか。しかし、もし人民に死ぬことを怖がらせることができたとして、それでもなおルール違反を為す者が出た時、たとえわしがそいつを捕まえて殺すことができる立場にあったとしても、そんなことする必要はないのである。
複雑な言い方をしていますが、殺せても殺さない、と言うのです。
それは、儒教や仏教のような倫理感や宗教的理由のためではありません。
常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是謂代大匠斲。
常に司殺者有りて殺すなり。それ、司殺者に代わりて殺すは、これを「大匠に代わりて斲る」と謂う。
世界には常在する「死刑執行人」がいて、そいつが殺してくれるではないか。さて、その「死刑執行人」に代わって殺すやつがいたら、それは「大名人の大工に代わって木を切る」と言われるのである。
夫代大匠斲者、希有不傷手乎。
それ、大匠に代わりて斲る者、手を傷つけざる有ること希ならん。
「大名人の大工に代わって木を切る」ひとは、(うまくやり遂げられないだけでなく)手を傷つけてしまわないことが珍しい(ぐらい必ず手をケガしますぞ、くっくっく。)」
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「老子」第七十四章。難しい一章ですが、「老子」の思想の不気味さがご理解いただけますでしょうか。おそろしい支配者の思想(「黄老の学」)であることがわかります。
なお、この「殺すを司る者(死刑執行人)」を諸注は「天」と解しています。われわれの語感だと「運命」とか「時間」でしょうか。「死神」でもいいかな。そう解釈すると「老子」の思想は無為自然(「老荘思想」)だなあ、という気がしてきますよね。よし、体重増も無為自然に任せることにしようっと。