相公何之(相公いずくに之く)(「聞見近録」)
元気な間はがんばりたいものです。

伝・荊公騎驢図
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北宋のころ、神宗皇帝とともに新法改革を実施した王安石さまは、引退して南京郊外に隠棲した。
王荊公不耐静座、非臥即行。
王荊公は静座に耐えず、臥すにあらざれば即ち行けり。
王安石は荊州の太守だったので「荊公」といいます。
荊公・王安石さまは静かに座っていることができず、寝ている時以外はどこかに出かけていた。
ナガシマ茂雄さんみたいな人だったのでしょう。
そのころは、鐘山の麓に住んでいましたが、住んでいるところは、南京城と鐘山・定林寺のちょうど真ん中あたりだったので、「半山老人」と名乗っていた。
嘗蓄一驢、毎旦食罷、必一至鐘山、縦山間。倦則叩定林寺而臥、往往日昃乃帰。
嘗て一驢を蓄え、毎旦食罷われば、必ず一たびは鐘山に至り、山間を縦ままにす。倦めば則ち定林寺を叩きて臥し、往往にして日昃(かたむ)きてすなわち帰る。
いつもロバを一頭飼っていて、毎朝、朝飯が終わると、必ず鐘山に向かうのであった。鐘山では山中の小道を思うままに彷徨い、疲れると山中にある定林寺の門扉を叩き、入れてもらって寝転がる。たいてい日が西に傾いてから家に帰ってくるのであった。
有不及終往、亦必跨驢半道而還。
終往に及ばず有りとも、また必ず驢に跨りて半道にして還る。
所用があって行きつきそうにもない時間になってしまっても、必ずロバには乗って、半分まで行ったところで引き返してくるのだった。
という生活だったらしいのです。(以上、宋・葉夢得「避暑録話」より)
以上は伝聞ですが、実際に会いに行った人もいた。
余嘗謁之、既退、見其乗驢而出。一卒牽之而行。
余、嘗てこれに謁するに、既に退くに、その驢に乗りて出づるを見る。一卒これを牽きて行けり。
わたしは、かつて、王安石さまに面会した。面会を終えて帰ろうとお宅を出たら、ちょうど王安石さまもロバに乗って出かけるところであった。下僕が一人、ロバの鼻づらを引いていく。
そこで、声をかけて訊いてみた。
相公何之。
相公、いずくに之(ゆ)く。
「(元)宰相どの、どこに行かれるのですか」
うちの宰相にも訊いてみたいところだが。どこに行こうとしているのか。
王荊公、答えて言う、
若牽卒在前聴牽卒。若牽卒在後、即聴馳矣。
もし牽卒前に在れば牽卒に聴け。もし牽卒後に在れば、即ち馳するを聴(ゆる)すなり。
「もし下僕のこいつが前にいるときは、こいつに訊いてくれ。もしこいつが後ろにいたら、その時はロバの行くに任せておる」
見事な回答ですね。
或相公欲止則止、或坐松石之下、或田野耕鑿之家、或入寺随行。
或いは相公止まらんとすれば止まり、或いは松石の下に坐し、或いは田野耕鑿の家、或いは寺に入れば随行す。
時に宰相さまが止まってくれと思えば止まっているし、時には松の下の石の上に座っているし、時には田舎の耕作したり穴を掘ったりしている家やら、時にはお寺など、ロバに連れられて入っていく。
いつも、
以嚢盛餅十数枚。相公食罷、即遺牽卒。牽卒之余、即飼驢矣。
嚢を以て餅十数枚を盛る。相公食べ罷れば即ち牽卒に遺(のこ)す。牽卒の余は、即ち驢を飼う。
袋の中にまんじゅうを十数個入れている。宰相さまが食べたいだけ食べて、残ったものは下僕に渡す。下僕も食べて余ったものはロバのエサだ。
或田野間人持飯炊献者、亦為食之。
或いは田野間の人の飯を持して炊献する者あれば、また為にこれを食らう。
時には、田舎のおっさんらが飯を持ってきて炊いてくれたりするので、その時はそれを食う。
初無定所、或数歩復帰。近于無心者也。
初め定所無く、或いは数歩にして復帰す。無心なる者に近し。
出かける時にどこに行くと決めているわけではなく、時に数歩だけ出かけてすぐ戻って来たこともある。ほとんど「無心」でいるのである。
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宋・邵博「聞見近録」より。まんじゅうを遺さないとあとでもめますよ。
今の季節は調査に出かけたりできるのですが、春~秋は野球観戦がたいへんなんです。野球観戦のノルマが無ければシアワセになれるような気がしてしようがないのですが。