2月25日(火)・・・さぼって那覇から座間味島へ。
座間味島 ・・・ 那覇から船で120分。

港につきました。100分後ぐらいに船が出るので、滞在時間90分ぐらいしかないです。
座間見集落の裏手にある「まかーの社」へ。

満州事変等で亡くなったひとたちの忠魂碑が遺っています。
古座間見浜の先っぽにある「海神ざまみしる」拝所に行ってみます。

「しる」は南島の各地にみられる地名ですが、大和地理用語の「せと」の転訛と明らかになっています。ここも座間味島とすぐ向こうの無人島の間の浅瀬の神さまを祀ってあるようです。

こんなあだんの繁みを抜けると・・・

海である。

向こうの島との間が「しる」。島へ渡らないように立札がありました。
この岬を回り込んだ東側が、世界でも大人気の「潜り場」古座間味浜です。

「しる」の神さまたちに守られた「瀬戸内海」。向こうは慶良間島。

あいやー!すばらしい。

こんな透明度です。さわやかに飲んでしまいそうです。
時間が気になって、座間味の村に戻ります。拝所(赤い鳥居あり)の多い邑ですが、ここがおそらく中心と思われるノロ宮です。

祭礼もできそうですね。

ノロ宮のすぐそばに小学校があります。校庭にある、右は名産鰹節「けらまかつう」を世に広めた水産業の松田和三郎、左は教育者で衆議院議員にもなった安里積千代の胸像です。
集団自決の慰霊碑までは行けませんでした。マリリンの像も。

ホエールウォッチングで有名ですが、ほんとに普通の観光客にも見えるとは。
写真に撮ると遠く見えますが、左舷かなり近いところにクジラさまがお見えになり、かなり執拗にはねたり踊ったりしておられました。真意は測りかねるが「遊んでいる」「からかっている」ように見えないでもない。
2月26日(水)・・・さらにさぼって糸満の真栄原、国吉へ
真栄原
・真栄原グスク ・・・ 遊歩道があると聞いたのですが。

このへんで途切れてたんで断念。あたたかいのではぶさまも気になります。
・龕屋、殿、どんどんガマ

公園にある龕屋です。「龕」は葬儀の際に甕を運ぶ輿で、それをしまってあるのが「龕屋」。厳重にカギがかかっているので、ホンモノがまだ入っているのでしょう。

コンクリ製の殿(とぅん)から、拝所を望む。国頭の方の「あしゃぎ」に当たる祭事場です。「崩壊きけん立入禁止」と書いてありました。

殿のかたわらの小道を入っていくと、「どんどんがま」があります。「ろんどんがま」ともいい、16世紀に漂着したイギリス船の生き残りがここに暮らしていた、という口碑もあるとか。さらにその人たちが糸満の人々に進んだ漁業を教えたという。
なんとなく虚妄ぽいですが、沖縄戦を含めれば、ここに息を潜めて生きていた人々がいた、ということは真実である。
・三連がじゅまる、眞栄里のカー

カーの向こう側にあるのが名木・三連がじゅまる。三本のがじゅまるの木が一本になっています。樹齢150年というので、琉球藩時代でしょうか。
・パックナー中将戦死の地

パックナー中将は沖縄戦の米軍指揮官、米軍史上最高位の戦死者。沖縄戦終息真近の20年6月19日、17日に22連隊全滅によって占領した眞栄里の地の前線視察中に日本軍狙撃兵の狙撃によって戦死しました。

上の慰霊碑あたりから東シナ海方面を眺望す。豊見城海岸から慶良間の方が見えます。
・栄里の碑 22連隊全滅の地 ・・・ 栄里の碑は上のパックナー中将慰霊碑のすぐ側に建っています。軍民の戦死者が祀られており、おのずとうなじを垂れるばかり。写真は撮ったけどとりあえず載せないでおきます。
国吉
・国吉カー

農作業のあとここでひとシャワー浴びて家に帰ってたんですわ。80年ぐらい前までは。
・シーサー(2000年再建)

いい感じのやつです。
・国吉の社 ・・・ 鳥居は昭和9年。

沖縄戦の間もここに立っていたということです。
・国吉グスク

神社の東寄りの小道から入れます。中世南山のグスクシステムの一画を占めていた。

このあたり虎口だと思われます。

二の郭から一の郭に昇る「本丸虎口」だと思います。上の平坦部は草むらで、はぶさまももしかしたいるかも知れんので平坦部は断念。
本土の中世城郭と比較できそうな縄張りになっています。一緒ようなやつらが作っていたのでしょう。植物度がすごいので確認がしづらいですが。
・根所 ・・・ 豊後から来た人が地元の娘を娶った子孫が国吉の根人だそうです。

奥にはガーもあります。

ほかにも集落内にいくつかカーがあるようです。ブロック片に赤字で「カー」と書いてありますね。
ちょっと暑いなあ、というレベルの暑さだったので、季節的にもよかったです。勉強になった。
なおこの間、各地でネコ退治を行っていますが、それは別途調査報告します。

そっちも見てニャ!