令和6年4月調査報告(浦添経塚・伊祖)

4月6日(土)・・・浦添前田から牧港(まちなと)まで、県道153号線沿いを歩く。この道は、琉球王府時代の「国頭方西海道」(くにがみほうせいかいどう)で、グスク時代(12~15世紀ごろ)の主要港湾であった牧港(為朝さまの息子さまが隠れなすったというガマあり)と、14世紀に第一尚氏が乗っとるまでの中山国の本拠地であったとされる浦添城を経て、尚巴志が遷した首里城をつなぐ大道でした。王府時代の国頭方西海道は、牧港から西海岸沿いを名護方面まで延びています。
浦添前田、経塚、伊祖のガー(井戸)その他の旧跡を歩き回ってきました。来歴などよくわからないものも多いので、とにかく写真並べていきます。

〇浦添前田・経塚

まずは前田にある「井の大人井」(いのうしがー)。命名は王府による、という。干害にも涸れることがない。現在のコンクリの掩体には「コカ・コーラ」という文字が刻まれています(写真の向こう側です)。

龍巻という地名になるのでしょうか、夫婦井(みょーとがー)。

龍巻井(るーましがー)。近くに龍巻松もあります。

経塚の御殿(うどぅん)井。

古井(ふるがー)。

西井(イリガー)。お酒や塩で祀られてます。

海道沿いの「経塚」。14世紀に妖怪が出ることがあったので、高野山から来た日秀上人が金剛経を書いた石を埋めたところ、怪異は治まったという。碑には「金剛嶺」と書いてあります。

経塚から安波茶に向かう海道。東や島尻に行く海道もそうなんですが、とにかくアップダウンが激しい。

〇沖展 ・・・ 浦添体育館です(ANAのネーミングライツでカッコいい名前になっています)。2月にはスワロの室内練習場になっていたところ。今回の目的はこれを見に来た。

第75回になるんですか。戦後すぐに那覇市内の小学校を借りて始めたので、春休み中、という時期設定になっているそうです。

〇伊祖 ・・・ 伊祖は、浦添にグスクができるまでの伊祖王統(為朝さま子孫とされる)の居城であったとされるグスクがある古い村です。

伊祖の谷柴ガー。なぜ谷柴なのかわかりませんが、集落の入り口に当たる場所ではないかと思います。

伊祖の神殿。集落の真ん中の高台に祀られています。ここは明るい雰囲気。鎮守の社ですね。

クシヌカー。「腰の井」の意で、「くし」は後ろを意味します。この裏は伊祖グスクです。

集落内に「イリヌカー」(西の井戸)、「ニヌファヌカー」(子の方の井戸、子の方は十二支方位の北)もありますが、下水道みたいになってたり駐車場の裏で写真撮りづらかったりしたので省略。

〇伊祖城 ・・・ 十年ぐらい前に散策していますが、久しぶりで登ってみる。難攻不落と言われた(攻められたことがあるかどうかわからない)のですが、ここも沖縄戦の激戦地で中隊終焉の碑があります。

伊祖グスク本丸に当たる伊祖の社の鳥居。ここから先は相変わらず神威の厳しい空間です。祠があってネコが二匹いました。写真は・・・あはりうまく撮れないようです。

祠の裏手に行くと「はぶ注意」の琉球石灰岩の石崖になり、一番高いところが旗立て岩(戦前までは岩に穴があって旗が立てられたという)。ここから見ると、牧港(宇治泊)、その後の主要港である那覇の泊港、さらに慶良間諸島、北の残波岬まで見渡せ、やまとや唐からの船の行き来が見えたはず。十年前のもあった「伊祖王の子孫以外祭るべからず」の岩刻文字も遺ってました。

グスク公園内にあるシーサーヤ。陶器のシーサー二体が祀られ、地域の信仰を集めているそうです。

伊祖グスクの北側、牧港に流れる小湾川のほとりにある「立津泉」(たちちがー)。名前の由来はわかりません。

川沿いにずっと下っていくと、かつての宇治泊の中州に祀られていたと思われる「真間ノロの墓」に着きます。ここが本日の目的地。牧港のエンダーでルートビア飲んで那覇に戻ります。

〇県立博物館 ・・・ バスでおもろまちへ。

こんな企画展をやっていたので見て行きます。全国回ってるやつかな。

雨降りで気温があまり高くないので、ずいぶん歩きました。しかしこのあとラーメンを食べたというだけで体重増に!

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