令和6年3月調査報告(大宝沼周辺)

3月3日(日) 茨城県筑西市内を中心に、国指定史跡・大宝城(大宝沼)を見てきました。筑西市の下妻北方、関東最古・大宝八幡宮の北側には、かつて巨大な大宝沼といわれる湿地帯が存在し、南北朝期、この沼の南側の大宝城、関城、駒城が南朝方で、小田城を追われた後の北畠親房が入って、神皇正統記を完成させている。南朝方と、沼北方の結城市山川の山川城、攻城要塞としての井上城に入った高師冬と、中世戦史に稀な大激戦を繰り広げた地なんです。

〇大宝城・大宝八幡宮 ・・・ 関東ではじめて、大宝年間に八幡宮が祀られた、という地です。その後、鎌倉幕府に優遇されたりしています。大宝城は北朝側の猛攻に長く耐えたのですが、兵糧の不足と城内不和により落城。下妻政康が戦死しています。城内不和はツラい。

本殿は16世紀のもので、国指定文化財です。神社としても十分いい神社です。

左甚五郎作と伝わる大国さあの小祠。こういういいものがたくさんある境内です。

宝物殿にもすごいいいものがあるようですが、今日は公開されていません。大宝沼から出た古墳時代のものと思われる木舟もあるんです。

城郭としての土塁や沼地との比高や食った弁当や「従四位下妻政康忠死之地」の碑や平泉澄先生の題字などの写真も撮りまくったのですが、うまくカメラからPCに取り込めてないので、今日のところはお預けじゃ。

〇関城 ・・・ 大宝沼の北側にあり、大宝城とは舟で結んでいたという難攻不落の名城です。ここの関さんも戦死しています。この時期に城主が戦死するというのはすごいことですよ。今では陸地ですが、周辺に「騰場江」(とばのえ)、「江」(え)など水運系の地名も多い。

赤矢印は南朝側の関宗祐・宗政父子の墓、青矢印は北朝側でここで戦死した結城直朝の五輪塔です。看板にも書いてありましたが、中世戦史まれに見る激戦の地だとは思えないぐらい、周囲はのどかな農村です。

高師冬が関城物見やぐらを掘り崩すべく掘った「坑道」の跡です。大正年間に偶然村びとが発見。結局落盤等で役に立たなかったそうですが、「日本三坑道」の一とされる、と書いてありました。

赤丸印が坑道跡。その右手の方に関城が広がります。かなりの規模の「水城」です。左手の筑波山の位置や、坑道跡から左手の旧沼地との比高など見てとっていただくとうれしいなあ。

主郭部(と思われる)の掘割と土塁。この掘割まで水が湛えられ、土塁が船着き場になっていたようです。現在このあたりは整備中の模様。私有地も多くてたいへんだと思いますが、ほんとに全体が整備されて見学できるようになったらすごい迫力になると思います。

城域にあった顕彰碑です。昭和11年に戦死した少尉を讃えているのですが、題字が荒木貞夫陸軍大将。昨日の群馬と今日の茨城と続けて荒木大将の字を見た。これは偶然なのか、当然なのか、掘り下げてみようかなー。

〇井上城 ・・・ 北朝側・高師冬の攻城用城砦として設けられたもので、縄張りなどは不明。ただし、堀切・土塁などが確認されており、かなり長期戦を覚悟して作られたものとされる。

南端部の曲輪跡と思われます。右手はるかに関城方面が見えます。

〇駒城 ・・・ 南朝側の支城で、ここも三方を湿地に阻まれた難攻不落の要害であったそうです。結局ここは落城はしなかったもよう。

遺っている城域はごく一部のようですが、それでも湿地(現在の水田地)との比高を見ると、難攻不落性が偲ばれます。これは北側の堀切。

〇浅間山古墳 ・・・ 6~7世紀の前方後円墳。形の見事さに見惚れます。鬼怒川河畔の「ランドマーク」古墳でしょう。

後円部の頂に浅間社の祠があります。

〇駒の墓、五輪塔 ・・・ 駒の墓、はいわれ等わかりません。五輪塔は南北朝期のものとのこと。

「駒の墓」とだけ書かれた碑が建っています。大正十五年の建碑。近くでどんど火らしい焚火の跡があるので、地域の民俗信仰に組み込まれているのはわかります。

「ゆがみ」がすばらしい、みたいなことが解説板に書いてあります。それによって南北朝期であることがわかるとか。

〇飯村丈三郎墓 ・・・ 茨城の殖産興業に務めた先覚者・飯村丈三郎のお墓です。

今でも近所に住んでおられる一族の方たちのお墓だと思います。写真とって申訳ないけど、有名人だからしようがないと思ってください。

〇山川城(東持寺)・・・ 結城氏の一族・山川氏の居城。戦国期まで城館があり、近世は代官所だったそうです。長方形の空堀と土塁がみごとに遺されている。

梅の名所として有名みたいです。

こんなステキな堀と土塁がまるまる一周遺っています。へへへ。たまらねえぜ。

来週からつらい観タマノルマだ。その前に今日はいいもの見れました。大宝八幡宮の厄除けだんごも美味かった。

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